「神の使者」って本をかなり前に予約していてようやく来たんですが、どんな本でなぜ予約したのかすっかり忘れていました。
まだ少ししか読んでいせんが、今までどうにもピンとこなかったことがたくさん腑に落ちました。
ちなみに、この本はチャネリングではなく、目の前に二人のアセンディッドマスターが現れ、その対話を記録したもの。
同じ対話でも、「神との対話」のように脳内会話ではありません。
形式は違いますが、どちらかというと、ヒマラヤ聖者への道(ヒマラヤ聖者の生活探求)に近いと思います。
まず、スピ系でよく言われている、この世界の始まり。
超簡単にいうと、神が自分を経験的に知ろうとして自分を分離して二元性の世界が始まったって話。
いろんな人が似たようなことを言ってますので、そうなのかと思ってましたが、完璧な存在ならそんなことする必要ないんじゃないかという思いが残っていました。
それについては、「神は二重性も世界も創らなかった」と言ってます。
じゃぁ、どうやって始まったかというところはまだ読んでいませんが、最初のこの話で俄然この本に興味が出ました。
それから、聖書が恣意的に取捨選択されたものという認識はありましたが、4大福音書はほぼ事実だろうと思っていました。
でも、逆に、伝記の部分は間違いだらけだそうです。
放蕩息子のたとえ話などのたとえ話や死者をよみがえらせた話などは真実らしいですが、それ以外はイエスが言ってない言葉が多いそうです。
たとえば、
「汝の敵を愛せよ」
というのは洗礼者ヨハネの言葉だそうです。
イエスには敵という概念がなかったのです。全てが幻想だとわかっていたので、男女はもちろん、人を区別して見ることはありませんでした。
私は幼い頃から聖書を読んでましたので、おかしいと思う点がいくつかありました。
イエスが木にのろいをかけるような言葉を発して木が枯れたとか、神殿で商売人のテーブルをひっくり返して怒ったとか、やはりそんなことはしていないようです。
肉体に意味を見出していないので、処女懐胎である必要性もありませんし、十字架上で苦しんだりもしていません。
十字架にかけられる前に「できればこの杯を取り除いてください」と神に頼んだり、亡くなる前に「なぜ私をお見捨てになったのか」と言ったりもしていません。
ヒマラヤ聖者だけでなく、いろんな覚者がイエスを最高の悟りを開いた人物と言ってるのに、どうもおかしいと感じてましたので、スッキリしました。
またユダは酔っ払っていて遊女を買うお金が欲しくてそれをもらってイエスのいる場所を教えただけで裏切るつもりはなかったとか、十字架刑はユダヤの習慣にはなくローマ人がやったことで、ピラトが「私は関係ない」とか言ったとかいうのも嘘らしいです。
結局ローマに取り入るためにパウロが創ったのが新約聖書で、この中の著者で生前にイエスに会ったのはマルコだけで、しかも子供だった時なので、弟子が書いたものではないのです。
パウロがイエスの教えを捻じ曲げたのは私も今まで調べた話にありましたのでそう思ってましたが、想像以上だったです。
死海文書の中に見つかった「トマスの福音書」は弟子のトマスが書いたものだそうですが、途中で殺されたので中途半端な状態だとか。
ヨハネの黙示録にいたってはスティーブンキングの小説かって感じ。
モーセの十戒については「神との対話」の解説で結構納得してましたが、
「偶像をつくってはならない」
というのは異教徒の偶像崇拝をなくすためではなく、
「神にはいかなるイメージもないのだから神のイメージを造ってはならない、って意味なのよ」
ということでこの宇宙が幻想だということに通じる話のようです。
また、
「ポジティブシンキングや『いまここ』を大事にする、祈る、肯定する、否定的な考えを捨てる、有名人の講演を聞くなんてことは、当座は役に立つかもしれないが、それだけでは深い谷に閉じ込められた無意識の心を解放することはできない、ということだよ」
なんて話もありまして、非常に興味をそそります。
ということで、昨日の夜寝ながら読んでたらすぐに寝ちゃったようで、5時に目が覚めましたが電気つけっぱなしでした。
久しくそういうことはしてなかったんですが。
それで、二度寝しましたが、ちょっと頭も痛いし、会社休んでゆっくり読もうと思いました。
月に一回は休んでいいので、ちょうどいいかと。
でも、次男が起きてきたら集中して本読めそうもなかったので、結局昼過ぎに車で30分の公園に連れていって、自転車の練習させたり、遊具で遊ばせたり、凧揚げして、買い物して夕方帰ってきました。
会社行った方が楽で本も読めたかも。
結局いつもより肉体的には疲れましたが、子供はすぐ大きくなって一緒に遊べる時期は少ないので、良かったです。
本は読み終わったらまた感想書きますね。分厚い本なんで3/4残ってるし、今回書いた話は本質的なものではないので。