すべての死に関しては、穏やかであるべきだと思っている。
 落ち着いた場所で、人生に納得し、愛し/愛した者に囲まれ、眠るようにその瞬間を迎えるのが最良ではなかろうか。
 人がどういう死に方をしようが、たとえ家族であろうと私は口出しできないのだが、私はそう思っている。



 事故などの死は心が痛む。
 どんな思いでその瞬間を迎えたのだろう。
 死を感じる間もなく死を迎えただろうか。

 誰かに伝えていない言葉だってあっただろう。
 むしりとられた人生の先に、いつも通りの日常があったと思うのだ。
 もう続けることができない日常は、どこへ行ってしまうのだろう。
 残された人の心の中で続くのだろうか。



 それを考えると病死などは、比較的緩やかに死を受け入れることができる気がする。
 その死が理不尽でも、本人と周囲には時間が与えられる。
 一点に収束していく時間を、同じベクトルで考えることができる。
 未来を望まなくなることが救いになる。
 人生には納得していなくとも、落ち着いた場所で、愛してくれる人に囲まれて死の瞬間を迎えることはできる。



 自死を望むなら、それも尊重しなくてはいけないと思っている。
 日常を続けることがもう嫌になってしまったのだろう。
 人生に見切りをつける決断をしたのだろう。
 それが正しい精神のもとで行われた決断なら尊重する。
 ただ、自分で死を選ぶときは、正常な状態で決断されていない場合が多いと思われるから問題があるわけで。
 完全に正しい精神のもとで、本人の選択であるのなら、死は、もしかしたら新しい扉を開くだけの話なのかもしれない。



 その人に何があって何を考え、何を選んだのか。

 それはその人にしか知りえないことで、それを本人以外の人間が推察するのは不躾であるし土足で心に踏み入る行為だ。
 論ずるなどもってのほか。
 人の心は自由だ。絶対不可侵の聖域として存在しなくてはならない。



 たいていの人の死は、私の知りえないところで起こる。
 誰かの死を知ったとき、私は全力でその死に関する思考を停止する。
 私にできるのは、その人の最期の瞬間が穏やかであったことを祈ることだけだ。

 それでも哀しくて、何か言いたいことがあるのなら、涙を流せばいい。
 扉の向こうに行ってしまった人に、生きている私ができることは、そんなに多くはない。

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