早月(さつき)流。斬鉄剣康宏。
刃引き。1993年。
斬切直後に刀(とう)を止める
という事。
これは刀術剣術居合術におい
て極めて重要な刀の運刀法だ。
だが、これができない人が異
様に多い。
特に居合剣法をきちんと修練
したことがないまま日本刀を
振り回して物切りをして悦に
入っている者たちに非常に多
い。
空気斬りではあるが、居合を
嗜む者たちにはそれらは一人
もいない。
だが、居合人とて、いざ実際
に真剣日本刀で試斬をしてみ
ると、かなりの高段者でさえ
も刀を振り回して、刀の制御
が一切できずに地面まで切先
を向けるほどに切り下げて刀
を地面にぶつけたりする。
地球を切ってどうする。
また、切先が地面に向くまで
下げたら隙だらけではないか。
まるで剣術でも居合術でも斬
術でもない。
つまり、刀術ではない。
剣法とは一切無縁の大出鱈目
の大贋物なのだ。
とりわけ居合をきちんと一か
ら修練せずに刀で物切りのみ
をやる人間にそれが異様に多
い。
しかし、そうした大ニセモノ
をテレビや動画で公開してド
ヤ顔している連中が結構いる。
真実は一つ。
それらは刀術、剣術、居合術、
抜刀術、斬術、試斬、実戦真
剣刀法とは一切無縁だ。
剣法ではない、出鱈目な刀を
利用した振り回し踊りを剣士
の剣法であるかと偽って拡散
させている、日本の伝統文化
の観点からも犯罪的な行為で
あり忌むべき人的質性だ。日
本人の「剣士」の行為ではな
い。
それが証拠には、それらの者
は物体を切断する事(できてな
いが)のみに執着して、一切残
心も武士らしき仕草も作法も
所作も無い。
極めつけは咥えタバコで刀を
振り回して先生ぶってドヤ顔
している破廉恥な者まで登場
しはじめた。大出鱈目な振り
回しを以て。
そんな剣士、そんな武士は日
本には本来いない。
「ではないもの」でしかない。
混迷する現代。
真実一路の剣武一心は廃れ、
みにくい大贋物が跋扈するよ
うになってしまった。
その流れは、本来日本の伝統
的な武技である真剣刀法の世
界もそうした贋物跋扈の風潮
に汚染されている。
根源理由は簡単だ。
それら堕落の道を推し進める
ニセモノらには「士魂」が無
いからだ。一切無い。
武士のブの字の魂さえ無い。
見ているとよく解るだろう。
咥えタバコで日本刀を振り回
してドヤ顔する武士がどこに
いようか。
武士とも武技ともサムライと
も士魂とも全く無縁だ。
日本を否定するそれらの族が
日本刀を出鱈目なやり方でふ
り回して偉そうにふんぞり返
ろうとしている。
極めて醜(みにく)く、無様で
そして哀れである。
士魂無き者が真剣日本刀を手
にする事ほど危険なものはな
い。
ほぼ反社の行動に近似してい
る。
刀(とう)を止めるのは簡単だ。
軽い木製のツナギ(真剣拵保管
用の木製刀身)を装着した拵の
一口(ふり)で、真剣の時のよう
に真向や袈裟で目一杯切り下
してビタリと止めて一切剣先
がぶれないかどうかやってみ
ればよい。
刀術技量未熟の者はほぼ100%
左右上下に剣先がゆれてぶれる。
力任せの「剣法もどき」をずっ
とやって来たからだ。力で刀を
物体、あるいは空気に叩きつけ
ているだけ。
それは、人物はともかく、術
が大ニセモノであると自覚する
べし。
抜刀はできても抜重ができなけ
れば刀法・刀術、剣法は成立
しない。
自覚無きまま安易な段位のみ
昇段する、無知な周囲からお
だてられていつのまにか「先
生」になった気分になる。
実にさもしい事だと知ろう。
武士は己に刃を向けて自戒す
る。
その士魂なき者たちが武士の
真似事をして、かつ中味が大
出鱈目をやるのは、極めて見
苦しい。
自分の刀術が未熟か否かは、
軽いツナギの刀で普段通り
切り下して止めてみれば即判
別がつく。
刀の切先がピタリと停止して
一切軽量木製刀身がぶれない
のではなく、ぶるぶるプラプ
ラするとしたら、己は未熟で
あると知れ。
刀術に習熟していると刃引き
日本刀でも畳表の置き斬でさ
えなんなくできる。
これは真実だ。
そして、その際も斬ったら即
刀を止める。
力任せではなく、抜重による
刀法で。
やり方は自分で自得するしか
ない。
ビニール傘を思いっきり振り
下して止めて軸が一切曲がら
ないような事ができないと、
真剣日本刀などは本当のとこ
ろでは扱う事はできない。
剣法には剣の理(ことわり)が
あるのである。
剣士はそれを知っているが、
剣士でないニセモノはそれに
ついて無知蒙昧だ。
