今回の衆議院選挙(と、その周辺の空気)を見ていて、つくづく思うことがある。

世の中はいつから、他人の上げ足をとることが“仕事”になったんだろう、って。

 

街頭演説。

 

本来あれは、候補者の言葉を生で聞ける貴重な場だ。賛成でも反対でもいい。聞いて、考えて、判断する。それが民主主義の基本だ。ところが最近は、意味なく大声を上げて、ただ邪魔をすること自体が目的みたいな連中がいる。

「議論」じゃない。「主張」でもない。妨害そのものがコンテンツになっている。実際、選挙運動を妨害する行為は公職選挙法の「選挙の自由妨害」などで罰則の対象にもなり得る、と自治体も説明している。

そして現実に、街頭演説の妨害が問題化してきた経緯もある。

 

一方でネット。

 

ブログ、SNS、YouTube。ここでも同じ匂いがする。

重箱の隅をつついて、言葉尻を切り取って、文脈を削って、相手を“悪者”に仕立てる。本人が何を言いたかったのかより、「叩けるポイント」を先に探す。そして「はい炎上」「はい勝ち」。

これ、冷静に考えると狂ってる。

 

でも、狂ってるのは人間だけじゃない。仕組みがそうさせる。

今のネットは、怒りや嘲笑みたいな強い感情が数字になる。数字が回れば広告や案件につながる。つまり、炎上は“燃料”で、怒りは“通貨”になる。怒りを引き出すために作られた投稿や動画は、いわゆる「rage bait(怒り釣り)」として言語化されるくらい、当たり前の現象になっている。

 

そして研究でも、エンゲージメント(反応)中心の設計が、過激で境界線ギリギリのコンテンツを押し上げやすいことが指摘されている。

 

要するに、こういうことだ。

 

誰かを落とすほど儲かる。

 

誰かのミスを笑うほど伸びる。

 

誰かの言葉を歪めるほど回る。

 

それが「金になる」時代になってしまった。嘆かわしい。だけど、現実。

 

続きはオンラインサロン「YOOR」にて。

 

日々、僕の背中を追ってくれる皆さんに、今日は改めて僕が音楽家として、一人のギタリストとして守り続けている「不変の哲学」について考えてみる。

 

巷には数えきれないほどの「音」が溢れている。ボタン一つでそれなりの音楽が生成され、消費されていく。しかし、そんな時代だからこそ、僕はあえて古臭いと言われるかもしれない「本質」にこだわり続けたい。

僕が考える音楽の真理、それはたった一つのシンプルな図式に集約される。

第一の柱:三位一体の哲学

音楽はまず何より、「いい曲」であり、「いい音」であり、そして「いい演奏」であるべきだ。

この三つが揃って初めて、音は「芸術」という名の魂を持つ。

  1. いい曲(構成美) どんなに速く指を動かそうと、そこに心を震わせるメロディと、完璧に構築された楽曲の骨組みがなければ意味がない。僕が目指すのは、数十年、数百年経っても色褪せない「普遍的な美」だ。ヘヴィ・メタルという激しい枠組みの中にあっても、そこには常にクラシックの如き気品と、必然的な旋律が宿っていなければならない。

  2. いい音(音響の真理) 音は、奏者の「声」そのものだ。僕が機材やタッチ、ピッキングの角度一つにまで病的なまでにこだわるのは、それが僕の魂を空気中に解き放つための「媒介」だからだ。歪んでいても濁らず、激しくても瑞々しい。聴き手の耳ではなく、心に直接突き刺さるような「真実の響き」を僕は追求し続ける。

  3. いい演奏(表現の生命力) そして、それらに命を吹き込むのが「演奏」だ。技術は目的ではない。しかし、技術がなければ表現したい感情の半分も伝わらない。圧倒的な練習量に裏打ちされたフィジカルと、その瞬間にすべてを賭ける精神性。この両輪が揃ったとき、演奏は単なる再現を超え、奇跡を呼び起こす。

この「三位一体」こそが、僕の音楽人生における絶対的な北極星なのだ。

第二の柱:新たなる血、新生KSBF

そして今、この三位一体の哲学をさらに高い次元へと引き上げる時が来た。 すでに発表している通り、わが「KellySIMONZ's BLIND FAITH」に、Yama-Bに続く新たなゲストヴォーカリストJINNが加わった。

 

彼の歌声に触れた瞬間、僕の脳内には新しい旋律が溢れ出した。彼の持つ圧倒的なレンジと表現力は、僕が描く「いい曲」を完璧な形で具現化し、僕のギターが放つ「いい音」と共鳴し、ステージ上で「いい演奏」へと昇華される。

 

彼との融合によって、KSBFは今、過去最高に攻撃的で、かつ繊細なエネルギーに満ち溢れている。これまでの僕たちを知っている人も、まだ知らない人も、覚悟しておいてほしい。新生KSBFは、皆さんの想像を遥かに超える地平へと足を踏み入れている。

第三の柱:伝説との邂逅、マーク・ボールズ・プロジェクト

さらに、僕の音楽人生における重要なピースがもう一つ。 ネオ・クラシカル・メタルの至宝であり、僕が心から敬愛する盟友マーク・ボールズとのプロジェクトだ。

 

11月、彼との来日ライブが決定した。

 

Mark Boals × Kelly SIMONZ
2026年、待望の来日公演が決定しました。

『TRILOGY』40周年を記念し、
新たな時代へとつながる特別なステージをお届けします。

📍東京:代官山UNIT(10/31・11/1)
📍大阪:江坂MUSE(11/3)

詳細は順次発表予定です。

彼のようなレジェンドと対峙するとき、中途半端な姿勢は死を意味する。彼の神懸かり的な歌声に対し、僕は僕のすべて――すなわち、これまで培ってきたすべてのテクニックとエモーションをぶつけるつもりだ。

 

そして、そのライブに先駆け、マークとのコラボレーション・アルバムをリリースする。 今まさに制作の佳境にいるが、手応えは凄まじい。マークの声を最大限に生かすための楽曲、選び抜かれたトーン、そして僕自身の魂を削るようなプレイ。このアルバムこそが、僕が語ってきた「三位一体」の現時点での最高到達点、マスターピースになると確信している。

道は険しい。だからこそ挑む。

「いい曲、いい音、いい演奏」を追求する旅に終わりはない。 しかし、最高の相棒になったJINN、そして長年を共にしたKAZとYOSUEKE、そしてレジェンドであるマーク・ボールズ。この最強の布陣と共に歩む未来には、希望しか感じていない。

僕はこれからも、この峻険な道を真っ直ぐに突き進む。 皆さんも、僕が命を吹き込んだ音を、その全身で、魂で、受け止めてほしい。

 

本物は、いつの時代も揺るがないと信じて40年。

 

また ライブ会場でお会いしましょう。

 

One note, one soul..

結論から言う。ライブに慣れた“だけ”では技術は上がらない。

ただし、ライブに慣れることで「見えてくるもの」が増えるのも事実だ。そこをどう扱うかで、成長する人と止まる人がはっきり分かれる。

 

多くの人は、ライブを最初から「難しいもの」と思い込む。

ステージは怖い。視線が刺さる。手が震える。音がいつもと違う。自分の演奏が自分のものじゃなくなる。そういう経験があるほど、「自分には向いていないのかもしれない」と早合点してしまう。けれど、これは別に才能の有無ではない。単に、慣れていないだけだ。

 

人間は未知の状況に強く反応する。

照明、音量、ステージの距離感、客席の空気、モニターの返り、音の定位、立ち位置、動線。こういうものは、スタジオでは完全に再現できない。最初にライブが難しく感じるのは当たり前だ。だが、場数が増えると、少しずつ体が理解し始める。「この感じなら、呼吸はこう」「この返りなら、ピッキングはこう」「この会場なら、立ち位置はこう」――頭で考える前に、身体が先に答えを出すようになってくる。これは確かに成長だ。ライブという環境に対する適応力が上がるからだ。

 

ここで一つ、残酷な事実を言う。

お客さんは細かいことをほとんど分からない。

もちろん音楽ファンは鋭い。だが、プレイヤーが気にしている「ピッキングの粒」「タッチの微差」「一音の立ち上がり」「リズムの数ミリの遅れ」まで、全員が全員感じ取っているわけじゃない。多くのお客さんが受け取るのは、もっと大きな輪郭だ。曲の雰囲気、勢い、熱量、場の空気、そして“その瞬間にしかないライブ感”。

 

だから、こういうことが起きる。

自分の中では「大失敗した」と思ったのに、終演後にたくさんの人に褒められる。

「今日ヤバかった…」と落ち込んでいたら、写真を撮りに来た人が満面の笑みで「最高でした!」と言う。場合によっては、演奏者本人だけが地獄を見ていて、客席は普通に楽しんでいた、なんてこともある。

 

さらに、こんなことも起きる。

対バンが異様に上手く見える日がある。音がデカい、勢いがある、見せ方も巧い。「あっちが勝ってる」と感じる瞬間。ところが共演者からは「今日めちゃ良かった」「音が抜けてた」「フレーズが刺さった」と褒められる。自分が想像している評価と、外から見た評価がズレることは普通にある。

 

これが積み重なると、人間はどうなるか。

気が大きくなりやすい。

最初に持っていた新鮮な緊張感は薄れ、「どうせ細かいことは分かってないだろ」と、どこかで横柄な態度に落ちていく。ここが一番危ない。技術的な問題ではない。姿勢の問題だ。

 

ライブに慣れることは、確かに「楽」になる。

精神的な負荷が軽くなる。段取りが見える。トラブルにも動じなくなる。これは良いことだ。だが、その“楽”がそのまま「雑」につながる人がいる。緊張がなくなって手が回るようになったのに、心が緩む。注意が散る。準備が甘くなる。すると、いつか必ず頭打ちが来る。というより、長くは続かない。

 

なぜか。

ライブは「バレないからOK」の世界じゃない。

たとえ細部が伝わっていなくても、プレイヤーの状態は音に出る。甘えた瞬間の音は、熱量の低下として伝わる。演奏の“魂の密度”が薄くなる。音がただの作業になる。観客は理屈では言えなくても、それを感じ取る。

 

じゃあ、どうするか。

答えはシンプルで厳しい。

 

常にリハーサルの時点で本番を想定した練習をする。

スタジオに入った瞬間から「本番のつもり」で弾く。立ち位置を決める。音量のバランスを想定する。MCや曲間の空気も含めて組み立てる。ライブは“曲を弾く場所”ではなく、“流れを作る場所”だ。リハでそれをやらずに、本番だけで急にできると思うのは都合が良すぎる。

 

そして、そのためには当然――

個人練習を積み重ねる。

リハは“練習の場所”ではない。確認と調整の場所だ。個人練習が足りていない人ほど、リハで自分の問題を解決しようとする。その時点で負けている。バンド全体の時間を使って、自分の宿題をやるな。これはプロでもアマでも同じだ。

 

さらに大事なことがある。

ライブ後の評価は有難く受け入れつつも、常に客観的に自分を検証する。

褒められたら嬉しい。もちろんそれは受け取るべきだ。人の言葉はエネルギーになる。だが、褒め言葉だけで自分の成長を測るな。なぜなら、評価には優しさも社交辞令も混ざる。客席は楽しむ場所であって、採点する場所ではないからだ。

 

今の時代、演奏は簡単に残せる。

スマホで録音できる。マルチトラックで記録できる。動画も撮れる。いくらでも“証拠”が残る時代だ。つまり、逃げられない時代でもある。だからこそ、自分自身を見つめる時間が重要になる。

 

ライブを録音して聴く。

テンポの揺れ、音色のムラ、音量バランス、ミスタッチの傾向、集中が切れているポイント。そこから目を背けない。反省すべきところは押さえる。次のリハまでに修正する。次の本番で改善する。これを繰り返す。結局、技術が上がる人は「気合いが強い人」ではなく、改善が習慣になっている人だ。

 

そして最後に、誤解してはいけないことを言う。

お客さんは細かい演奏のことが分からなくても、プレイヤーが発する熱量は明らかに伝わる。

ここは技術の問題ではない。

音楽は、最終的に人間が人間に伝えるものだ。どれだけ正確に弾いたかより、そこに心や魂がどれだけ存在しているか。ステージに立っているのが“人”なのか、“作業者”なのか。観客はそれを見ている。

 

ライブに慣れると、確かに景色は変わる。

でも、その変わった景色に甘えるか、研ぎ澄ますかで結果はまるで違う。

「どうせ分からないだろ」と思った瞬間、あなたの音は死に

「分からなくても伝わる」と理解した瞬間、あなたの音は生きる。

 

慣れは武器にもなるし、毒にもなる。

だからこそ、慣れた後が本当の勝負だ。

緊張が薄れたところから、もう一段深く潜る。

淡々と準備し、淡々と検証し、淡々と更新する。

その繰り返しの先にしか、本物の技術はない。

 

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