31歳で社会人になってから6年、ブログをしていなかった。それまでは大学院生だったので、家でも外でもパソコンを肌身離さず持っていたせいか、つらつらと毎日なにかを書き続けていた。それがようやく今、ブログを再開させた。正社員からフリーターになり、まあまあ時間に余裕ができたことと、そろそろ独立を考えていたら、これまでの反省点の多すぎる人生を振り返るとともに、これからの歩みを記録してみたくなったからである。
そもそも、31歳になるまで大学院で何をしていたかというと、エチオピア系アメリカ人の食を通じたエスニックネットワークの形成に関する文化人類学的研究、である(ふむふむと読み流していただきたい)。幼い頃からアメリカ映画が好きで、中でも法廷ものが大好きだった。そんな影響もあるのか、大学では法律を学びたいと思っていた。もうひとつ法廷もので関心があったのが、アメリカの黒人人種差別の問題である。とくに何度も何度も見た映画が、現代の黒人人種差別が浮き彫りに描かれている「評決の瞬間」という映画である。
そんな私が、希望していた大学受験に失敗し、最終的にたどり着いたのが、外大のスワヒリ語学科であった。アフリカ地域文化について学べる、いい意味での変わり者たちが集まる学科であった。アフリカにはいつか行きたいと思っていたし、国際協力の分野にも興味はあったし、学費も私立よりは安いし行ってみるか、という消極的な選択ではあったが、快活で個性的な仲間ばかりで、楽しく充実した大学生活だった。卒論では「アフリカ系アメリカ人の宗教」をテーマに書いた。スワヒリ語とは一切関係ないテーマで申し訳なかったが、「アフリカ」に関連付けられればokだったので、やはり心の片隅にいつも眠っていた「アメリカの黒人」のことを書かずにはいられなかったんでしょうな。
その後、私はアメリカの黒人問題について調査・研究するため、就職せずに他大学の大学院に進学することにした。色々な文献を読むうち、アメリカにはアフリカ諸国からの奴隷の子孫である従来のアフリカ系アメリカ人のほか、移民や難民としてアフリカ諸国からやってきた人たちが増えてきていることがわかった。なかでもエチオピアからの移民・難民がワシントンD.C.に集中していることを知り、彼らのことをもっと知りたいと思うようになった。
しかし研究となると、たんなる興味だけではやっていけない。そういうことならまずはエチオピア研究から始めなさいと言われ、修士課程ではエチオピアでフィールドワークをした。しかも、何の予備知識もなかったエチオピアの農耕民族が住む街に置いてけぼりにされ、言い方が悪いけど、元々関心のないことをするのはストレス以外なにもない。なので、少しでも興味のあることをしようと、「女性の経済労働と酒造り」をテーマに調査した。それでも修士課程の3年間は、苦痛で苦痛で仕方なかった。それでもいつかはアメリカ、ワシントンD.C.に行くんだ!という希望を持ち続け、エチオピアの公用語であるアムハラ語も日常会話程度には習得し、なんとか耐えた。
エチオピアでお世話になった現地の方々には非常に感謝している。今でもフェイスブックでつながっている友達もいる。彼らに恩返しできなかったことが今でもずっと後ろめたい。それでも私は冷酷にも自分のわがままを通し、エチオピアでの研究成果を世に出すことなく打ち切った。