ゆるゆるな毎日

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水曜どうでしょうやマンホール、キリスト看板などの趣味に走りすぎた日々を綴っています。

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石神井公園の三宝寺池の北側には2つの史跡があります。

 

まずはこちら。

殿塚です。

 

木の根元に石碑が一基あり、柵で囲われています。

 

 

殿塚の石碑です。

石碑には

 

 「古墳 殿塚 石神井城主従五位上左衛門尉豊嶋太郎泰経之●

 文明九年十月六日落城討死」

 

と刻まれています。

 

●の部分の文字は下部が消えていて読み取れませんでしたが、

 

くさかんむりが見えるので「墓」でしょうか。

 

石碑の文字を信じれば、

 

文明9年(1477年)に太田道灌によって石神井城が落城した際、

 

討ち死にした城主・豊島泰経の墓ということになります。

 

 

石碑の横には殿塚の由来という案内板がありました。

こちらもそのまんま記してみます。

 

  「文明九年(一四七七)石神井城が

   上杉氏の軍将太田道灌との戦い

   に敗れて落城したときに、

   城主豊島太郎泰経は黄金の鞍

   をつけた愛馬に乗り三宝寺池

   に沈んだという伝説がありま

   す。この塚は縁者が徳をしの

   んで築いたと言われています。

     また、これより西方三〇メ

    ートルのところに、落城のとき

    同じく三宝寺池に身を投げ

    た城主泰経の二女照姫供養の

    姫塚があります。

      平成元年四月

            練馬区教育委員会」

 

練馬区教育委員会が設置した案内板でした。

 

この文章の中で注目すべきは伝説の2文字。

 

そう、これは伝説に基づいてゆかりの人が建立した石碑なのです。

 

石碑にも「後裔 」の下に建立者の名前が刻まれているので、

 

子孫と名乗る人が最後の当主を偲んで建立した供養塔なのでしょう。

 

 

史実によれば、豊島泰経は落城した石神井城から逃走し、

 

文明10年(1478年)に

 

東京都北区にあった平塚城で再度挙兵したものの

 

太田道灌が鎮圧のために出陣したと聞くと、平塚城での籠城はせず、

 

更に北の足立郡へ逃げたとされています。

 

昔は平塚城から神奈川県の丸子城へ行き、

 

更に小机城に逃げ込んだと言われていましたが、

 

北に逃げた人が何故Uターンして南の神奈川県まで逃げたのか?

 

と不思議でした。

 

同じ様に思った方は多かったと思いますが、

 

最近の研究ではこの通説は誤りで、

 

平塚城から更に北へ逃げたと分かったそうです。

 

なんでも太田道灌状に

 

「泰経を足立まで追いかけたが、遥か遠くへ逃げ去ってしまった」

 

と書いてあるのだとか。

 

となると、石碑に書かれている、

 

この地で討ち死にというのは間違いですし、

 

塚にしても墓にしても、ここに泰経が眠っているわけがありません。

 

石碑を建立した人は、その説を信じていたのでしょうけれど、

 

古墳(=墓所)ではないということになります。

 

 

ついでに、なんで泰経がUターンしたように思われていのかというと、

 

太田道灌状の「泰経が北に逃げた」のくだりの後、

 

「追跡を諦めて夜、江戸城に帰った」と書いてあり、

 

更にその後に

 

「翌朝、川崎の丸子に陣を張って丸子城を攻撃したところ、

 

敵は小机城に逃げた」と書いてあります。

 

前の文から続けて書いてあるので、解釈した昔の方が、

 

丸子城で攻撃されたのが泰経だと思われたのかもしれません。

 

泰経なら「敵は」と書かず「泰経は」と書くように思うのですが、

 

当時、研究した人たちはそう思わなかったのでしょうね。

 

そして、勘違いの原因は

 

地名も大きく影響しているのではないかと思います。

 

豊島氏の平塚城は東京都北区にあったのですが、

 

平塚は丸子、小机と共に、神奈川県にもある地名です。

 

なので平塚市から北にある川崎市の丸子まで逃げた後、

 

南にある横浜市の小机まで逃げたと解釈したのではないでしょうか。

 

 

長々と以前の通説の間違ったポイントを分析してしまいましたが、

 

肝心の殿塚の石碑のことに戻ります。

 

この石碑のことは

 

大正6年(1917年)5月に発行された

 

「石神井案内」に初めて出て来るそうです。

 

大正6年!

 

先日紹介した石神井公園に東南にある石神井記念公園の前身の

 

第二豊田園開園の翌年に発行された資料です。

 

ちなみに大正4年(1915年)11月発行の

 

「石神井村誌」には記載がないそうです。

 

きな臭くなってきたぞ

 

時系列を整理して書くと

 

 ・大正2年(1913年) 第一豊田園 開園

 ・大正4年(1915年)4月15日 武蔵野鉄道 池袋-飯能間 開通

 ・大正4年(1915年)11月 「石神井村誌」に石碑の記載なし

 ・大正5年(1916年) 第二豊田園 開園

 ・大正6年(1917年)5月 「石神井案内」に石碑の記載あり

 ・大正9年(1920年) 三宝寺池に日本初の100mプール開園

 

こういう感じ。

 

石神井記念公園のことを書いた時に触れましたが、

 

豊田園は石神井村の元収入役で資産家の豊田銀右衛門が

 

武蔵野鉄道の開通に伴い、

 

地元の地域開発を促すために観光開発をした庭園です。

 

時期的にも同じ頃に突然殿塚が名所として記載されたようなので、

 

豊島氏の滅亡を偲ぶと共に、

 

観光名所の一つとして史跡を整備した…というか作ったのでは…?

 

今で言うリゾート開発の一環だったのかも…と思うと、興ざめですが、

 

そう考えると一番しっくりきます。

 

 

個人的に殿塚の謎は解けましたが、伝説はもう一つあります。

 

泰経が愛馬につけて一緒に三宝寺池に沈んだという黄金の鞍です。

 

何度も書きますが、平塚城へと逃げた泰経が

 

愛馬と共に三宝寺池に沈んだわけがありません。

 

この伝説の元は文化年間(1804年~1818年)に

 

十方庵敬順が書いた「遊歴雑記」の中に

 

「貞治年間(1362年~1367年)に練馬将監善明という武将が

 

鎌倉勢に追いつめられ、馬に乗って逃げたものの、

 

馬が田んぼにはまってしまい、

 

敵の矢を受けてしまった馬の上で自害しました。

 

年月が経ったある日、

 

善明が亡くなった場所から突然水が湧いて三宝寺池となり、

 

善明の馬の鞍は朽ちずに池の主となった」というお話があります。

 

「遊歴雑記」というのは、

 

敬順が18年かけて江戸や東海地方を巡って書いた紀行文で、

 

地域の名所や文化、伝説などがまとめられた本です。

 

つまり、かなり昔の三宝寺池ができた時の伝説に出て来る

 

池の主となった馬の鞍と豊島泰経とが結びついてしまったのでしょう。

 

ちなみに「遊歴雑記」には

 

「鞍は時々水上に浮かんで見える」という一文もあり、

 

殿塚の松の場所から三宝寺池を覗くと

 

池の底に金の鞍が見えるという伝説にもぴったりです。

 

ただ、殿塚のある場所から

 

三宝寺池の中を見るのはちょっと難しいです。

 

池と結構離れているのです。

 

そして大切なことは、この殿塚、

 

昔はもう少し東にあったそうですが、

 

日本銀行のグランド整備に伴い、

 

昭和9年(1934年)に現在の場所に移転されたそうです。

 

その場所にあった松に上っても

 

三宝寺池の底を見るのは難しそうですが、

 

昔の人もそう思ったのか、松は色々な名前で出てくるのです。

 

全然違う場所にあったとされる〇〇の松が色々出てくるので、

 

かなりあやふや…いや、いい加減な伝説に感じます。

 

 

しかし、地元の方は金の鞍伝説を信じていたらしく、

 

〇〇の松(松の名前は色々)から金の鞍が見えたなどと盛り上がり、

 

明治41年(1908年)には知事に許可を得た上で、

 

三宝寺池で金の鞍捜索が行ったそうです。

 

明治時代にも「池の水ぜんぶ抜く」的なことをやっていたとは!

 

当然ですが、金の鞍は出て来なかったそうですが、

 

なんと大正初期と昭和初期には地中探索などをやったのだとか。

 

こらちは「徳川埋蔵金プロジェクト」的なことでしょうね。

 

もしも金の鞍の話が本当だったとしても、

 

松の上から金の鞍を見た人が沢山いたのなら、

 

そのうちの一人が失敬している可能性の方が高いんじゃないかしら汗

 

人間って、時代が変わっても伝説的なお宝に弱く、

 

都合の良いことしか見ずに、あると信じて探すものなのですねコインたち

 

 

殿塚だけで随分長くなってしまったので、姫塚についてはまた明日バイバイ

 

 

 

今回のおでかけ

★東京都立石神井公園

  住所:東京都練馬区石神井町1-26-1

  電話:03-3996-3950

  開園:常時開園

  入園料:無料(一部有料施設あり)

  駐車場:あり(有料)

  公式ウェブサイト:石神井公園(東京都公園協会)

 
 
 
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