前略 X様

10月3日、朝起きて、朝食も摂らずにゆったりと準備して外に出た。
地下鉄に乗って一路明洞へ。
4年前に日本で買ったガイドブックを頼りに石焼ビビンバの名店を探したが無い。
ここは大都会だから飲食店の入れ替わりも激しいらしい。

明洞は飲食店とファッションの街。
若者の集う繁華街にしては外国料理の店が少ない。
飯を済ませたら特に記すことは無いので、タクシーに乗って景福宮へ。
カタカナを読んで、韓国語っぽく言う方法を覚えたので、タクシーはすんなりと北へ向かってくれた。

景福宮というのは、大韓帝国の故宮であろう。
もうちっと広いかと思っていたが、大して広くない。
京都御所と瀋陽北陵の間くらいか。
李朝の太祖李成桂が建て、文禄の役で消失し、高宗が戻って再建し、日韓併合で総督府が置かれたが、金泳三時代に博物館として使っていたその総督府の建物を破壊し、遺構を再建して現在に至る。

要するに創建の頃の建物は残っておらず、場所は古くても古い建物は残っていない。
そしてその歴史を見れば日本との関係によってしか変化していないような宮殿だ。
実際、半島の歴史は殆ど中国と日本に挟まれた地政学的苦境の記述が殆どであって、中華帝国の朝貢国になるにせよ、モンゴルからダルガチを派遣されるにせよ、日帝の総督が支配するにせよ、外国からどういう形の支配を受けたかという差しか無いようなものである。
それ故、半島史を専攻していたソウルの同僚は「半島史ってつまらないですよ」と言って憚らない。

確かに、三国演義の血湧き肉踊るような英雄物語も、平家物語の諸行無常もこの国の歴史からは生まれにくい。
小さな半島国家で儒教中央集権体制だったせいもあり、国土がそれほど豊かではないのに商業貿易が発達せず、それ故に無位無官の平民が市民階級を作って豊かになったことが日帝以前に一度も無かった為に、活気に満ちた民間活動の歴史が無かった。
景福宮の敷地内には民俗博物館と中央博物館が有るが、その両方とも展示内容が貧困極まりないことを見ればそれがよく分かる。
韓国人はウリナラ半万年と言うので、余程面白い文物が展示されているのだろうと少し期待していたのだが、かなりがっかりさせられた。

先ず、国立民俗博物館に入った。
この時、この博物館は入館無料で、しかも日本語のパンフレットも用意してくれていたので親切だなと思ったものだ。
しかし展示の仕方が面白くない。
パンフレットには「韓国の伝統文化への正しい認識を与えるとともに伝統文化の国際化をリードしています。」と書かれているが、正真正銘の韓国の伝統文化の中に国際的な普遍性を持つものが少な過ぎるのである。

まさか、面白いものは日本が残らず破壊したか、或いは持ち去ったのか?
そういう事も有ったかも知れないが、もしもどこかに残っているのなら、最高の文物は買い戻してでもここに置くべきだろう。
青磁も白磁も大きな空間に無造作に置かれているだけで、しかも見たところ最高のものではないらしい。
中国の想像を絶する古い時代の器や、台北にある究極の青磁の展示の仕方をもっと見習った方が良い。

朝鮮独特の文物、半島のオリジナリティとは何だろう。
そういう事を考えながら展示物を見て目に付くのは、先ず活版印刷である。
実はグーテンベルクを遡ること百年前に金属活字による活版印刷術が半島で発明されていた。
しかし何故かこの技術が国際的に広がったという話を聞かない。

次に目に付くのはハングルの創始である。
訓民正音ハングル文字が韓国人が聖王として崇める世宗大王によって創られたことは言うまでもない。
しかし日帝時代になるまで、このハングルが歴史的文献には登場しない。
日本人が漢字を「真名」と呼び、平仮名カタカナを「仮名」と呼ぶように、半島でも長い間庶民向けの文字であったハングルは軽んじられていたからである。

僕は韓国人が世界に誇る国際的普遍性を持ち得る文化は食文化であると思う。
中華帝国の朝貢国でありながら中華とは全く異なる発展の仕方をした食文化こそが半島の誇るオリジナリティであろう。
しかしそれだけが堂々と誇れるものだという気持ちにならないらしい。
韓国の世界遺産というのは、端午節の行事にせよ、水原華城にせよ、僕から見ると「アレ?」と思うものが多い。

日本や中国がオリジナルであるものを幾ら真似したり盗んだりしても、完全に消化しなければ半島のオリジナリティが出るわけがない。
そしてオリジナルでユニークなものこそが外国人に珍しがられ、尊ばれる価値があるというのに、半島人はこれまでそういうものにあまり価値を認めようとしなかった。
それどころか他人の作ったものをそのまま用い、自分達が創始したかのように宣伝することが実に多い。
現代中国もそうだが、外国の優れたものを精密に複製すれば、そのまま自分達のものになると思っているかのようである。

そういう文化的土壌からは、真に新しいものはなかなか生まれない。
歴史は輪廻のように同じパターンを繰り返すだけである。
韓国や中国の大学や研究機関から、ノーベル賞学者が現れない理由もそこにある。
別に人間として頭が悪いわけではないだろう。

民俗博物館から、景福宮の復元された様々な建物を通り過ぎて、古宮中央博物館に入った。
それにしても、さまざまな歴史的出来事の舞台となったはずなのに、景福宮にはそういう説明看板が殆ど無いのにはあきれた。
北京の故宮とはえらい違いだ。
どうも中国人と韓国人では歴史に対する興味や関心の持ち方がかなり違うようである。

さて、古宮博物館だが、これもしょぼい。
本当に、「ふーん」と思うようなものしか置いていない。
見せ方が下手というだけではなくて、本当に見るべきものが無いのかも知れないと思った。
見るべきものが無いのに、最高の物を選んでここに置いています、というような解説は白ける。

ここまで見てきて思ったのは、韓国人は実に見栄っ張りだなあ、という事である。
無いものを有るかのように装い、自慢することに熱心である。
朝鮮民族全体がそうなのではない。
これは韓国という国家の成り立ちにも関係することだ。

韓国という国は、日本帝国に独立戦争を挑んで独立を勝ち得た民族国家ではない。
日本帝国の首脳部が愚かにも読みを誤って帝国が崩壊した為に棚ボタで得た民族国家の独立の機会に仲間割れを起こし、その仲間割れに米ソ中が介入して戦争をした結果できた国家である。
本当かウソか、恐らくはウソであろうが、北朝鮮は日本帝国にゲリラ戦を挑んだ民俗武装組織の首領が建てた国だという。
それに比べて韓国の初代大統領は傲慢で間抜けな李承晩であるから、韓国人は韓国という国を内心は心細く思っているのであろう。

同時代の東アジアのリーダーは、毛沢東にしても、蒋介石にしても、金日成にしても、武力で国家を造った伝説を持つツワモノ揃いだ。
李承晩はアメリカに据えられたに過ぎないから、朱子学ドグマが支配者に対して要求する正統性、即ち「天命」を受けているかどうかという点で著しく権威に欠ける。
恐らく韓国人の心の奥底には、韓国という国家が朝鮮民族の正統を継承していないというコンプレックスが蟠っており、それが韓国に比べればまだしも正統性を主張できる伝説を持つ北朝鮮に対するシンパシーになったり、或いは韓国を必要以上に立派に見せて権威付けしようとする行為になって現れるのだろう。
いずれにせよ、韓国民は韓国という国家を正統性のある民族国家となる途上にある仮の国家であるという観念を拭い去れず、そのコンプレックスに常に悩まされ続けているのだろうと想像する。

日本人から見ると異常に見える韓国人の火病的行動の多くは、この「一人前の民族国家の一人前の国民になりたい」という欲求が主要な根源だと思えてならない。
「一人前の民族国家になりたい」という欲求が内向きなら半島統一の熱意になり、日本に向けられれば、常軌を逸した反日行動となり、日本を克服し真の独立を勝ち得る為の過剰な盛り上がりを見せる。
李承晩によって創られた竹島問題はその象徴である。
日本に対していつまでも謝罪を要求し続け、日本人に対して常に道徳的に優位に立とうとするのも、このような強烈なコンプレックスの裏返しだろう。

このような韓国人が欲する正統性は、外国人が与えられるものではなく、自民族の力のみで勝ち得なければ意味が無い。
ということは韓国人のコンプレックスの解消は時間の問題ではない。
日本と戦争して勝つか、或いは半島を統一して正統性を回復するか、朱子学ドグマから解き放たれて新しい民族の思想を獲得するしかない。
第一の方法は無茶であり、第二の方法にはべらぼうなお金が必要で、第三の方法は伝統の否定であり、いずれも絶望的に難しい。

難しいが、実現可能性の面から言えば、べらぼうなコストがかかっても統一朝鮮を実現する努力を先ずするべきなのだろう。
思想を変えるには全体主義的な扇動か、或いは思想的天才の出現が必要だが、前者は更なる不幸を招き、後者は天のみぞ知る時機を待つ必要が有る。
という事は我々日本人が韓国人のコンプレックスによる被害を免れる為には、陰ながら統一を支援してやる必要があるのだろう。
あんまり表立って支援したり、事実上の統一援助金をやって恩着せがましくすると、やはり韓国人のコンプレックスが残ってしまうので日本にとって良くない。

韓国人の側からすれば「そのコンプレックスの元を作ったのは日本じゃないか!」と言いたいだろう。
それは否定しない。
だが全ての原因が日本にあるというのも真実ではない。
しかしそういう真実を韓国人に認めさせる議論を積み重ねるには、やはり彼らのコンプレックスの解消が必要なのであり、韓国のコンプレックスの解消が日本の国益にもなる以上は日本は上記のような形で手を貸してやるべきなのだろう。

韓国という体制が何らかの原因で滅んでも、そのようなコンプレックスを抱いた危険な民族の集団を消滅させることはできない。
たとえ再度日韓併合することができたとしても、危険なコンプレックスの爆発を先延ばしにすることができるだけである。
ここに北海道や沖縄や、或いは台湾とは種類の全く異なるリスクが潜んでいる。
儒教の正統性の観念は実に厄介である。

長々とまた脱線してしまったが、要するに韓国人の「見栄っ張り」も、正統性欠如によるコンプレックスの産物であると言いたいのである。
そしてそういうコンプレックスは中国に居る朝鮮民族にはほぼ無縁なのだろう。
何故なら彼らはそういう正統性を求めるナショナリズムから切り離された中国の一少数民族に過ぎないからである。
だから僕の老婆と韓国人となったその一族も自分達のことを明確に「元来中国人」であると思っているし、気性が激しいところは有るが、火病の気は無いのだ。

ロシアにいる朝鮮人も中国の朝鮮族と似たところが有るのだろうが、では北朝鮮人や、在日コリアンはどうなのであろう。
北朝鮮は金日成の「神話」を必要とし、半島を武力統一することで正統性を得ようと考えていたのだから、ニュアンスや程度は若干異なっても、やはり韓国のように正統性コンプレックスにとりつかれていると考えるのが妥当だろう。
在日コリアンはそれぞれの「母国」における正統性コンプレックスを背負っている上に、そのコンプレックスの一要因でもある日本に居なければ暮らしていけないところが更に厄介だ。
在日コリアンには様々な出自のパターンが有り、本人達の意識も長年日本に住み暮らして世代を重ねたおかげで意外に多様化しているので、十把一絡げに考える事は不可能である。

その集団の中に多様性が存在していることもあり、子々孫々日本に暮らすつもりなら日本人になってしまえば良いのに、と、日本国籍を簡単に取った女房を持つ僕は思うのだが、どうであろう。
在日問題については日本側からも在日側からも精緻な論考が積み上げられてきているはずだが、これを現実的に解決するには至っていない。
これはまた別に考えて書くべきテーマだ。
そういうことを景福宮を歩いていて考えていた。

景福宮では他に衛兵の交代儀式も見たが、特記することは無い。
それで景福宮を出た後は、またタクシーに乗って修復中の南大門を見に行った。
先日火事で消失し、現在再建中だが5年くらいかかるという。
韓国人にとっては金閣寺を放火で失った時の日本人よりもショックだったと思うが、現代韓国の持つ力でいずれまた力強く美しく甦るだろう。

早々