前略 X様

5連敗を止めたってなあ、せめて勝ったり負けたりで9月は行ってくれよ。
負けたり負けたりじゃぁ昔と同じやがな。
中央電視台はパラリンピック開会式中継。
相変わらずワイヤーアクションじゃのう。

選手入場に1時間半もかかって、人魂みたいにワイヤーを伝う花火が飛び交って、それであの金粉ショーみたいなお兄さんは一体何を意味しているのだろう。
耳が聞こえない女の子達の踊りを見ながら女房が「これも実は健常者の踊りでした、だったりして」とか言っていたが、僕は笑えなかった。
しかし中国人はボレロが好きだねえ。
屋外のオーロラビジョンではオリンピックの時のように中継していないな。

パラリンピックは国威発揚ではないから関係ないのか。
上位機関からの通達も出ていないのだろうな。
だが中国は国家としてはパラリンピックをかなり重視している。
自ら銃を取って反乱に立ち上がる心配の無い市民でも、少なくとも形だけは非常に重視する姿勢を打ち出している。

おかげで障害者をネタにした乱収費がまた既得権益になる。
温家宝はどんなつもりで言ったか知らぬが、企業は定められた割合の身障者を雇えなければ、代わりにとんでもない金額の出費を迫られる。
身障者を雇うと言っても、中国のインフラがバリアフリーとは程遠い状況なのだから、普通の都市では障害者が安心して働くというわけにはいかない。
そうして国家が徴収した障害者の為の福利基金が最終的にどこでどのように使われるのか公開されることは無い。

さて、香港もそうだが、中国は携帯の間違い電話が非常に多い。
それが今も直っていないので、本当に中国人はいい加減だなあと思う。
でもそれだけなら単にいい加減な性格の人々が多いのだな、という話で終わる。
問題は間違い電話の時の対応である。

間違い電話には出たくないのだが、同じ人がかなりしつこく何度もかけてくる確率が高いので、相手が誰なのかがよくわからない電話でも一応僕は出ることにしている。
そしてわざと日本語で「もしもし?」と言う。
この電話の持ち主が僕であるという事を知っている人は「もしもし?」と言われても普通に日本語か中国語で話し続ける。
しかし間違い電話の場合は先方が「は?」という反応をするのですぐに判る。

「は?」とか「ウェイ?」とか言われても、僕はめげずに「もしもし?」と言い続ける。
先方が自分で間違い電話であることを悟ってくれるのを期待しているわけだが、このようにして先方が悟ってくれる可能性が非常に低い。
それで僕は、何故中国人が外国語を聞いて自分が間違い電話をかけてしまったということが咄嗟に理解できないのか、単なるマナーの問題ではなく、これまでいろいろ考えてきた。
中国では普通の人間でもそうしてしまうという心理状態を僕がなかなか理解できなかったからである。

外国人が出てきたけれども、偶々近くにいた外国人の友人か何かがその電話を取っただけかも知れない、と思ったか。
自分が電話番号を間違えるわけがないと最初から思っているので、電話会社の混線などのミスだと思い、会話を続けていればその内に直ると思っているのか。
聞き間違いだと思って念を入れて確認しようとしているのか。
いずれにしても人間として根本的なコミュニケーションの姿勢に問題がある解釈であり、これでは中国人が一般的にアホであるか、それとも性格や精神に重大な疾患があることになってしまう。

もちろんそんなことは無いのであろう。
では何故なのだろうか。
いろいろ考えていて、僕は一つのエピソードを思い出し、その話とこの問題を結びつけて考え始めた。
そのエピソードとは、日本軍を初めて見た華北の農夫が国民党軍だと思ったという話である。

中国人にとっては侵略者であるはずの帝国陸軍の兵隊を間近で見ていながら、何でこの農夫は国民党軍と間違えたのかと言えば、一口に言うならば顔が同じで書き言葉が通じて話し言葉が通じなかったからであろう。
顔が同じならば中国人に違いない。
話し言葉が通じないのはどこか遠い地方から来たに違いない、と。
この思い込みから得られる結論は、言葉が通じない地方から来た中国人の軍隊、即ち広東から来た国民党の軍隊という事なのであった。

事実だけを取り出せば脱力感すら感じる馬鹿馬鹿しい話だが、この農夫の誤解の元になっている中国の田舎者の思い込みは、実は彼らの素朴で恐ろしい世界観を示しているように僕には思える。
即ち、モンゴロイドは全て中国人かその子孫であり、中国人かその子孫が話す言葉は中国語の方言に過ぎないという世界観である。
そう言えば、人類史上の普遍的な存在を示す場合に日本人は「古今東西」という4文字熟語を使うが、中国人は「古今中外」という。
日本人にとって、世界というのは東洋と西洋から成り立っているが、中国人にとっての世界は中華とそれ以外から成り立っているのである。

こういう中国人的な世界の概念を、日本人は普通「天下」と呼ぶ。
天下の周りに世界があるのである。
だがひょっとすると、中国の農民にとっては、天下と世界というのは殆ど等しいのかも知れない。
だとするならば、日本人と中国人が漢字を通して当然の如く通用させている国家だとか民族というような言葉も、中国人と日本人では全く別の意味で使っているのかも知れない。

間違い電話の話に戻るが、情報通信が発達している地域に住んでいても、外国語を聞いて外国語と判断し、それが自分の目的の相手ではない、だから自分は間違い電話をかけてしまった、という認識が咄嗟にできない中国人は、単に頭が悪くて自己中心的で礼儀やマナーを知らないだけではなく、そういう世界観が日本人とは異なるからなのではないか、と最近僕は考えている。
つまり外国という存在にどのように対処すべきかを、その世界観ゆえに考える事すらできないのではないかと思うのだが、おそらくそういう世界観を持っている人は中国に何億といるのだろう。
そしてそういう世界観を持っている中国人と国際紛争やナショナリズムに関して何か議論しようとしても無駄なのだ。
更に言えば、このような世界観は中華思想と呼ばれる中国伝統の世界観であり、中国人の価値観の改造無しには少しばかり学校で教育して直るものでは無いという事が重要である。

他人の価値観や世界観なんて、変えられるわけがない。
まして中国の価値観や世界観の伝統は日本や西洋よりもかなり長い。
しかも人数も多いのである。
チンギス・ハンその他の塞外民族の征服者たちが、その征服当初に大虐殺、というか中国人の数そのものを大減少させようと試みたり、或いはそう考えたりするのは、一つにはこのような周辺民族から見ると異様な世界観の集団をそのままの規模で残しておくことの危険性を感じたからなのだろう。

しかし幾先年の光陰を越えて、中華思想の世界観を持った文化集団は生き残り、単一民族としては世界最大の文化集団である漢民族が過去に例の無い隆盛期を迎えようとしている。
ということは、中国に住んでいて、中国人の間違い電話に一々頭に来るのは無駄である。
中国に住むからには、中国人もストレスフルであると感じるこの環境に馴染んで我慢するしかない。
仕方が無いことは仕方が無いが、日本人は日本においてはこのような中国化を何としても防がなければならない。

つまり世界は自国、自民族とそれ以外から成り立っているというような中華思想的世界観を排し、世界は様々な有力文化圏から成り立っているという事を認識した上で、それら異民族とは礼儀を以って交わるという心掛けを日本から無くしてはならない。
そうでなければ、外国人は日本に来ても日本の独特さを認識せず、単にアジアの片田舎の国であるとしか認識しなくなるだろう。
外国から見た日本の美点を意識せず、日本の美点を守ろうとしない者が非国民であると言いたい。
つまりそういう礼儀を知らぬ日本の若者は日本国民として半人前なのであり、日本国民としての権利を主張するには資格が足らぬのだ。

少し話が変わるが、大麻というのは例えばオランダでは合法である。
もちろん法的規制の下に合法なのだが、ヨーロッパ圏ではソフトドラッグとして扱われているものに罪悪感が薄いのである。
ロシア人力士も向こうの文化圏の若者なので、ひょっとすると日本でこれがこれほどの大騒ぎになるとは思っていなかったのではないか。
どうせ大した薬物では無いのだし、やっていないと言い張っていれば角界が守ってくれると高をくくっているのかも知れない。

認めてしまえば角界追放の上、国外追放も有り得るとなれば、精密検査で結果がクロと出ても裁判でもしない限り認めるわけにはいかないのだろう。
向こうの人の考え方もあるので、日本人の尺度だけで彼らを重く罰するには異論が出るかも知れない。
だが北の湖理事長を始めとした日本人幹部はれっきとした日本人であるばかりでなく、国技相撲を任されている人たちなのである。
その国技を守るべき人たちに日本の常識的な論理が通じないというのは恐ろしい話だ。

つまり相撲は形としては日本文化そのものであっても、それを支え、それによって生活している人々は日本の美点を継承するつもりが無いという事をアッピールしているのも同然なのだ。
そんな業界を国技と称して守ることに意義が有るのか。
国技に外国人が入って優勝したり横綱になったりすることは構わぬが、国技を汚す輩を放置するのならば国技の名に値しないのだから、さっさと止めてしまった方が良い。
日本のハードウェアが残っても、日本のソフトウェアが滅びてしまっては意味が無い。

早々