前略 X様

今年の国慶節休暇は西安旅行である。
言うまでも無くかつての唐都長安の跡、中華の国のまほろばを見に行ったのである。
いつかは見に行かねば、と思いつつこの年齢になるまで後回しになっていたので、さぞや感動するだろうと思っていたが、そこはそれ中国の旅で、単に疲れ果てたという思いを抱いた時が多かった。
後で説明するだろうと思うが、僕もまた青龍寺を訪ねた日本の坊さんと似たようなものであった。

大連から青島を経由して約3時間、南方航空機は西安の北郊、渭水の北にある咸陽国際空港へ着く。
この空港は現在の行政区画では陝西省咸陽市に在り、渭水の南側の西安とは別の市に属するが、ここが所謂西安空港である。
咸陽というのは始皇帝秦が最後に都した場所であるが、現在の咸陽市街は旧都跡の西側の渭水北岸に広がっている。
古来中国では山の南側や川の北側の都市を名付ける時「陽」の字を使うことが多いが、咸陽は西北に寧夏に連なる丘陵地帯を背負い、南は渭水に面しているので、「南北は皆(咸)これ陽」ということで建都の時から咸陽と称された。

その咸陽の北にある西安空港に夕食の時間をとっくに過ぎた時間に着いて、バスに乗って渭水を渡り西安市街を横切った。
現在の西安の結構は十四世紀、明の太祖洪武帝の時代に作られ、その規模は唐代長安の六分の一ほどしかないとは言うものの、文革後に爆発的に市街が発展したおかげで、現在の市街地は長安と呼ばれていた頃に匹敵する規模である。
我々のツアーが乗ったバスは空港を出て1時間半ほどして長楽路に面した万年飯店というホテルに着いた。
ここはかつての長安の街割では、東北の通化門外にあたるが、現在の西安では市街地の範囲内で、結構賑わっている。

機内食が貧弱だったので腹が減り、ホテル近くの面荘を探して蘭州拉麺を食べた。
関中三秦は五千年の昔から麺の国である。
こんな裏通りの大して目立たない所にある面荘の手打ち拉麺が、やけに美味い。
夜遅くなければ、隣の客が美味そうに食べていた拉麺の焼そばまで食べてしまうところだった。

翌日は当初の予定では兵馬俑を見に行く予定だったが、地元のガイドが混雑を避けて先ず華山に行こうと予定変更を提案し、ツアー客の一同に受け入れられた。
華山は西安市中から東へ100km以上の遠くにあるので出発は朝が早い。
ところでこの旅で三泊した万年飯店は3つ星で、悪くなかった。
これまで中国国内旅行をして、3つ星だという触れ込みで本当の3つ星に泊まった事が無かったが、さすがは国際観光都市西安と言うべきか、外国人が泊まっても先ず文句が出ないレベルの中級ホテルであった。

実際、万年飯店では西洋人の観光客を多く見かけた。
言葉を聴いていると、アメリカ人、フランス人、ドイツ人と多様であった。
北京や上海以外の中国の都市で、これ程様々な外国人観光客が訪れるのは西安だけではないか。
そういうところも、やはり西安は日本の京都とよく似た古都であった。

10月1日の夜、寝る前に予習として桑原隲蔵の「考史遊記」の「長安の旅」の部分を読んだ。
去年の成都の時に便利だった中国旅游出版社の旅行ガイド「走遍中国」の陝西の巻を買って持って行きたかったのだが、あいにく大連開発区には売っていなかったので、「考史遊記」をガイド代わりに旅先に持って行ったのである。
しかし「考史遊記」は何しろ百年も前の旅行記なので、比較的新しい司馬遼太郎の「街道を行く」も探したのだが、どうやら日本に置いて来たらしく大連の家には無かった。
けれども新しくとも何百年も前にできたものばかりという三秦の遺跡巡りでは、百年前と基本的な文物があまり変わっていないので勉強にはなった。

ところで花の都「長安」は何故「西安」という名前になってしまったのか?
実はこれを調べるのに少し手古摺った。
手持ちの文献には見当たらず、ウィキペディアは中国では使えず、他の日本語のサイトでは見つからなかった。
それで女房に手伝ってもらい、中国語のサイトを片端から調べてみたところでは、こういうことらしい。

唐代の長安は、元々隋の文帝が漢代長安の東南に新たに興した巨大な首都・大興城を継承し漢に倣って改名したものだった。
ちなみに漢代の長安は、現在の西安市の西北にあり、何と言うか、まるで長岡京と平安京の逆(正確には線対称)のような位置関係にある。
その後、唐の没落につれて長安も没落し、宋代に首都が開封になってからは京兆府という名前になった。
その京兆府に西安という名前を与えたのは明の太祖洪武帝であったそうな。

洪武帝は息子の一人である秦王を西安に置いて西方の備えとした。
これは後に永楽帝となる燕王が元の大都、つまり今の北京に置かれて北の備とされたのと同じ理由である。
その秦王の為に造られたのが即ち現在も残る西安の城壁や鐘楼、鼓楼などの明代建築群である。
現代の西安は唐代長安の上に在るというよりも、洪武帝朱元璋が新たに造った都市の発展した姿なのである。

こういう都市の改名は中国にはよくあることだから、今までは特に何も思わなかったが、実際に西安に行って様々な文物を見て非常に気になったので、この機会に調べてみたのである。
ちなみに現代中国のナショナリスト達は、レニングラードをサントペテルスブルクに再改名したロシア人のように、西安を長安に再改名することを提議しているらしい。
その気持ちは僕にもよく分かる。
だが実際に西安に行ってみて思ったのだが、ここは最早「長安」ではなく、やはり「西安」であった。

けれども我々日本人にとって西安とは、やはり「遙かなる長安」の名残なのである。
西安には阿倍仲麻呂の墓地があり、空海が密教を学んだ青龍寺があり、今も日本人が唱える般若心経を訳した玄奘三蔵法師が居た大慈恩寺がある。
かつて日本から命懸けで海を渡った遣唐使達も見たであろう大雁塔が今もその姿を残している。
そういう西安の旅の覚書を、今回もここに残しておこうと思う。

早々