前略 X様

武侯祠の御本尊とも言うべき諸葛孔明を祀るのは静遠堂である。
元々は劉備を祀るお墓と廟がある敷地に、しかも劉備の廟の北側に南面した諸葛孔明の塑像を置く廟堂を造るというのは、劉備と諸葛孔明が君臣の関係だったことを考えると異様である。
しかしこれも、この武侯祠全体が諸葛孔明を主人公とした三国演義ワールドの一部であると考えれば合点がいく。
三国演義では、臥龍出廬後の劉備はまるで諸葛孔明の傀儡かロボットのように描かれているからである。

武侯祠は元々漢昭烈廟、つまり今の場所から少し西に離れた所にあったらしいが、明代に今の場所に移され、その後火事があって再建し、清代になってから建物も塑像も作り直して敷地全体を乗っ取ってしまう形になり、名称も「武侯祠」という名前が定着した。
いや、諸葛孔明が乗っ取ったのではなく、他の文臣諸将も集っていることを思うと、劉備の人徳が多くの蜀漢輔臣を引き付けてこうなったと云うべきか。
静遠堂と呼ばれる諸葛亮殿は、それでも劉備殿に比べれば心持ち小さく、段も若干低く控えめに建てられている。
だが、この建物全体の配置を見れば、どう考えても諸葛孔明が御本尊だ。

門には郭沫若の筆で「武侯祠」の額、諸葛廟を見上げれば額には「名垂宇宙」、正面には例の綸巾道袍に身を包み羽扇を手に持った金色に輝く諸葛孔明の大きな塑像が鎮座している。
左右には綿竹に玉砕した一子瞻と孫尚が配され、互いに中央を向いて見つめ合うように佇んでいる。
中国語の説明を読んだ女房が「この諸葛尚っていう孫は十七歳で死んだのねえ、若いわねえ」などと言う。
「そうそう、時に諸葛瞻は三十七歳、演義では尚は十九歳で死んだことになっている。三代にわたり蜀漢に殉じたので、こうして一緒に祀られているわけだな。」と僕がまた解説を始める。

「陰平の間道から進撃してきた鄧艾を綿竹で迎え撃った時には6万の軍勢を率いていたと演義では謂うが、当時の蜀の動員可能兵数は十万に満たないはずだからそれは無理だな。当時蜀の主力軍は姜維が率いて剣閣で鐘会を食い止めていたというし、実際に諸葛瞻が率いていたのは多くてもせいぜい2、3万人だろう。それでも大軍だったろうから、鄧艾が降伏勧告を送って諸葛瞻を諸葛孔明の本貫である山東瑯邪の王に推挙すると言うが、孫の諸葛尚が笑止とばかりに心が揺れる父親を止める。そこで綿竹で一合戦あって・・・」
「ああ、もう、いいよ!」と女房が言う。
こういう時、僕は誰かに止めてもらわないと話を途中で止められないのである。
僕は仕方なく小声になって、一人ブツブツ言いながらビデオカメラを回す。

諸葛廟を抜けて、橋を渡るともう一つ建物が奥にある。
「三義廟」と名づけられた劉備、関羽、張飛の三人を祀るかなり新しい建物である。
中には張飛、劉備、関羽の塑像が博物館の蝋人形よろしく置かれているが、その造型は現代的で、まるで連続電視劇三国演義の俳優のようである。
左右には連環画の名場面を切り取ったような石版が並べられており、片隅で線香と蝋燭を売っていた。

三義廟に線香をあげるようにしきりと勧められたが、値段が高いのできっぱりと断った。
どうも武侯祠に対する感情が、日本人と中国人では大分違う。
僕のような三迷の日本人は、半分は聖地で、半分は博物館という感じで武侯祠を見物している。
それに比べると中国人の多くにとっての武侯祠は、まるで北野天満宮のような場所であるらしい。

しかし、それにしては「学業お守り」の類のお土産が売られていない。
ものの本に拠れば「三人寄れば諸葛亮の知恵も出る」という言い方が中国には有るというが、「阿斗」と同じ類の古い諺に成り果てたか。
だいたい、殆どが清代以前に作られたというこの武侯祠の入場料に60元というのは暴利である。
観光地を整備するのは悪いことではないが、中国政府はあまりにもえげつない。

三義廟の奥にはイベントスペース兼喫茶スペースでもある結義楼がある。
特に面白い建物ではないので、横目に見ながら劉備のお墓「恵陵」へ向かう。
途中、「桃園」と書かれた石碑に観光客が群がっている所を通るのだが、あまりに人が多いので僕は記念写真も取らずに通り過ぎた。
後で資料を確認してみると、そこは桃園結義の場を再現しようとして作った小さな桃園で、奥には劉関張の3人の石像が置いてあったのである。

恵陵は円墳である。
同時代の日本は古墳時代で、卑弥呼の墓とも言われる箸墓とほぼ同年代の古墳ということになるが、その箸墓と比べて、いや、そもそもが蜀漢の皇帝の墓にしては、周りが建て込んでいるせいもあろうが、えらく小さく質素な小山と感じられる。
この円墳は成都の人々の劉備を慕う気持ちでもって守られて、この時代の墓としては奇跡的に盗掘を免れているという。
もっとも、正史に伝えられる通りだとすれば、劉備の墓には大した副葬品は無いであろうが。

恵陵を一回りして出、最後に辿り着いたのは「三国文化陳列室」という新しい建物である。
狛犬の間を通り抜けると、「三国文化陳列」という額があり、その屋根の下に大きな槍のような武器の鋳物彫刻が飾られている。
一本は関羽の青龍刀、一本は呂布の方天戟、あと一本は徐晃の大斧である。
建物の左端の入り口から入って中を見ると、三国時代の発掘品や、三国時代の戦争の様子、三国の軍制などに関する資料が展示されている。

この建物の中を見ると、この武侯祠、いや、広く三国志関係の観光資源の多くが、いかに多くの日本のファンによって支えられているかがわかる。
官渡の戦いだの、赤壁の戦いだのの解説が出ているが、どこかで見たことのある絵ばかりだ。
それもそのはず、これはどう見ても学研の歴史群像シリーズからのコピー(もちろん本家本元の特権で無断コピーだろう)だ。
そして止めの展示物は、NHK人形劇で使われた喜八郎作の諸葛孔明人形である。

どうも三国志ワールドが熱狂的に好きなのは、中国人の一部と日本人だけのようである。
ここ武侯祠には韓国人や白人や黒人の観光客は殆どいない。
最後は武侯祠を出て東側のお土産物屋街「錦里民俗一条街」で買い物をした。
ここは単なる土産物屋街ではなく、スタバが有ったり飲み屋があったりする、ちょっとした歓楽街である。

暗くなってきて、腹も減ったこととて、僕たち夫婦はここで土産物を買い集めると共に、黒い玉蜀黍を齧ったり、干豆腐の点心などを立ち食いして夕食の代わりとした。
女房は韓国で飲食店を開いている姉の商売繁盛の為に、大きな関羽の像を買った。
僕は例によってDVDを探したが、無い。
代わりに武侯祠の写真集と、三国志関係の遺跡について書かれた文献、そして羽扇を買った。

会社の同僚への土産には「張飛牛肉」という酒のつまみを買った。
お店では張飛のコスプレをしたオッサンがしきりと愛想(?)を振り撒いていたが、一緒に記念写真を撮るには「張飛牛肉」を買わねばならない。
僕は5袋ほど買って、真っ黒な顔をして京劇の張飛の衣装を着ているオッサンと一緒に写真を撮ってもらった。
この「張飛牛肉」の店は成都双流空港の中にもあるが、空港にいる「張飛」は、武侯祠の「張飛」よりも小柄で迫力が無い。

初日、成都に到着した日の午後は、こうして暮れていった。
お土産を買い終わった頃から雨が降り始めて、ホテルに帰るタクシーを拾うのに難儀した。
傘を差して歩き始めると、武侯祠の近くには成都名物の茶店も無く、足を止めて一休みする場所が見当たらなかったので、よほど武侯祠に引き返してスタバに入ろうかと思ったが、結局女房に引きずられるようにして前に進み、何とかタクシーを見つけて乗り込んだ。
その晩はホテルで、お湯を出そうとすれば水が出て、水を出そうとすればお湯が出るシャワーを浴び、翌朝早くに九寨溝に向けて出発するバスに乗り込む為に早く寝た。

---------------------------------------------------

二年連続して目の前で胴上げを見せ付けられるとは・・・読売は弱いのう・・・
まあしかし、今年の阪神はよう頑張った。
よくぞ最後の最後まで粘りぬいた。
往年の張子の虎と呼ばれた時代には考えられん強さや。

中日がこういうマニアックなチームやなかったら、「まさに竜虎時代だ」と言いたいところやが、そういう言い方は誰もせえへんな。
それにしても松坂も井川もメジャーやとか言うてるし、日本のプロ野球界はますますつまらんようになってきたな。
逆に、悔しいが、サッカーは面白うなるかも知れん。
この前「オシムの言葉」ちゅう本を読んだけど、えろうおもろかったで。

早々