前回、行儀の話をした。これからは行儀はほどほどにしたいと思っているのだが、もう一つ大きなマインドチェンジをすべきことがある。それは「勝つメンタリティ」である。

 

小さい時から、今の今まで、「勝つメンタリティ」を忘れることはなかった。どういうことかと言えば、競争に勝つ、勝つことを美徳とするメンタリティである。思えば、幼稚園の頃から徒競争で、2等賞で悔しかったものだ。小さい頃、獲れるカブトムシの数や大きさを競ったり、野球や鬼ごっこ、缶蹴り、全部、勝つという目標に向かった。それが、いつも間にか、学校の成績や受験に勝つ、となり、そして就職で勝つ、会社で勝つ、いつまで経っても、同じ価値観は捨てることは出来なかった。

 

勝つには目的があった。学校に合格するため、就職するため、家族を養うため・・・・・。

 

今考える。今、勝つ目的はあるのか? 目的は前より曖昧になり、実際はないのではないか?ということである。

勝つ目的は、総じて言えば、生きるためである。生きるためには経済的に自立しないといけないし、子孫を残すためには勝たなければならないからだ。生物は、生存競争という勝つという宿命を負っているから、本能的に勝とうとする。それは「生」という方向性を持っているからである。「生」でなく「死」の方向を持った時に、「勝つ」の意味は何か?

 

逆に思うことは、「勝つ」に意味がないのならば、「勝つ」ことを全て放棄すれば良いのか否かという点である。それは「生きる」を全て捨てることにならないか?という点である。勝とうとしなくても「生きる」ことはできるか?という命題である。

 

実際は、それはできるはずである。元企業戦士の団塊の世代のお爺さんが、引退しても、「勝つ」メンタリティから抜けきれず、もぬけの殻になることはよく言われている。それに近い例が身近にもある。

 

自分はボランティアもやっているが、ボランティアの世界は勝ち負けはない。ボランティアの世界には、「勝つ」こと抜きに「生きる」ヒントが満載である。

 

人生はゲームだとも言える。そのゲームに死ぬまで勝とうと試みる人も多いのだと思う。それは、死ぬ前に負けて再起不能になる可能性も秘めている。勝ち負けのゲームは、定年後は必要ないのではないか? ゲームであれば、「みんなの森」のように勝ち負けはない方が良い。勝つという結果を求めるのではなく、楽しむ、味わう、プロセス、体験に価値を置く。それは負けがない生き方であり、勝つ目的と「勝つ」という手段がひっくり帰り、「勝つ」ことが目的になるのを防ぐ。それは、前回書いた、行儀がいい目的と「行儀をよくする」という手段がひっくり帰り、「行儀が良い」ことが目的になるのと同じである。

 

なかなかこの辺のパラダイムシフトは、仕事をしている限り難しい面もある。よく「それはゲームに勝とうとしていないか?」と自問自答する毎日である。