この年になると自分らしく生きたいと考える。無理はしたくないと言うか、腕の曲がらない方向に曲げたくはない。自分にとってそれはなにか時々考える。

小さい時から何が苦手といえば、行儀よくすることである。行儀が悪いと言われ続けて、それが大人になってTPOを弁えなさいという言い方になったが本質的には変わっていない。

カッコいい人になりたいとは思うが、どうしても外身より内容を重視する。そして感性に従って思うままに行動する、そんなクセがある。行儀よくして褒められても嬉しくない、どうしてこんなことをしなければならないか?と思ってしまう。みんなに合わせることが常識で、正しいと思うことに反発する。皆分かってない、本質はこうだと考える。


いわゆる偏屈な人間と言えるが、そうやって学校で適応出来ずに、不登校になる子たちの気持ちはよく分かる。


でも一方で柔軟性に欠けることも良くないと思ってきた。いくら自分が違和感を持っても、それに負けてしまうのは自分が弱いだけ、自分が他を受け入れないだけと言うのも正しい。自分がやりたいことが正解ではない、正解はもっと広いところにある、できるだけ広い世界に飛び出したいという願望である。それは「行儀がよい」と矛盾することが多い。自分の知らない世界に乗り出すには、鷹の目とコペルニクス的展開が必要だからだ。だから行儀が良いのは嫌なのである。


最期まで行儀よく生きるのは大変だし素晴らしいと思う。それは疑問を持たずに一生実践できれば、いろいろな意味で成功するだろうし、幸せな人生を送る事ができる。それは理性と道徳に基づいた生き方とも言える


しかしながらそのような生き方は自分にしかない感性に従うことを阻害し、クリエーティブに自分だけの新しい方向を見つけてそこに身を置くことを阻害する。

自分自身に起こる変化のスピードは、歳を取るにつれて速くなるとすれば、若いときのように気力も体力もない中、その変化に追従するのは、行儀よくするというような、他人事と考えたら不味いと思う。


年寄りなら年寄らしくするとか、本人の意志より世間体を大事にするとか意味はないと思う。


一方で子どもたちには世間でみんなが気持ちよく生きていくための行儀の良さ、マナーを訓練するのは大事である。それは他人の気持ちが分かるうえでも重要だし、他と協力して経済活動を成功させるために、目標を立てて遂行する為にも必要な要素である。子供は感性を頼りに、誰に言われなくてもそれぞれ新しい世界へ巣立ってゆくわけで、そのときに変な方向へいかないように、大成するよう力をたくわえるように、教育はあって然るべきだと思う。一方で内向きで安定志向、指示待ちの若者がよい増えているとしたならば、大人がステレオタイプなお行儀の良い形に育て過ぎているのではないかと思う。結局バランスなのである。


老年期を迎えて、子供を育てる必要もなく、無理してお行儀よくする必要がないのであれば、5歳の自分に戻って、何もしがらみもなく自由奔放さを取り戻す。自然科学という好奇心の塊が、いつの間にか勉強というお行儀のよさ置き換えられた、コンピュータという夢の機械への興味が、大規模システム開発というお行儀の良い仕事に置き換わったのをもう一度、好奇心ベースの取り組みに戻す。そんなことを、考えてみたい。


父の死をきっかけに、ニーチェの言う「幼子の幸せ」の追求が始まった感じである。