久しぶりに書きます!

 

前に見たこともあったが、たまたま以下を視聴する機会があった。

 

 

鈴木大拙の主客未分、無分別智、無心などのエピソードが満載で改めて仏教の持つ普遍性を再認識するものであった。

 

印象的だったのは、人間は宗教に「安心」と「自由」を求めるという部分。その両方は、ブッダの言葉にもある、「ただ一人犀の角のように歩め」を実践するために必要なものなのだと思う。

 

自我や言語や考えることは、主客が分かれた二元論であり、相対論である、すなわち、人間は、みる主観としての自分と見られる対象をモデル化した(鏡)客観の両方を頭の中に持って、物事を把握したり考えたりしている、それが過去を振り返り、未来を予測し、現在の行動を決定する、相対的な自我になる。大乗仏教における唯識の理論である。その予測が外れることと、相対的であるゆえに、外れたことを「苦」と感じることが、人間の安心と自由を阻害する、ということかと思う。さらに言えば、人間の安心と自由を阻害するのは苦だけでなく、先ほどの予測が当たった時の「楽」も同じである。主客が分かれたことによる分別が執着となり、安心と自由を阻害するのである。

 

人間だけでなく生物全ては、自由エネルギー原理に従って、「生物の知覚や学習、行動は自由エネルギーと呼ばれるコスト関数を最小化するように決まり、その結果生物は外界に適応できる」

と言えるわけだから、客観を自我の中でモデル化して、自由エネルギーを最小化するよう行動を決定するのは、生物の本能的な働きを言える。ただ人間は大脳が発達し、単なる原始的な知覚をモデル化するだけでなく、言葉と論理を使って抽象的な事象をモデル化できそれに基づいた判断をする。それはすなわち感覚や生理的な欲求など入力を無視して、純粋に脳の中でバーチャールに作り出された客観モデルが、判断の入力になる。だから人間は自殺をし、お互いに殺し合う。ガザの惨劇を見てもそう言わざるを得ない。

 

鈴木大拙のエピソードで、自由とは「腕が曲がらない外側の方向に曲がることではない」というような説明がある。腕というのは曲がる方向すなわち内側に自由に曲がることが自由であり、外側に曲げようとすれば腕が折れる。それは自由ではないということである。「人間が自殺する自由がある」「戦争においては人を殺す自由がある」というのは自由を履き違えているということなのである。人間は大脳が発達して、腕を外側に曲げるような判断もできるが、それは自由ではないということだ。(あえて、正誤という軸での判断はやめておく)。

 

これは自我の逸脱とか暴走とか過信とか言えると思うが、そこから解き放たれることが、安心と自由の獲得だということだ。別のエピソードで「猫はなんでもすっとやる」というのがある。猫は何か迷うこともなく、忖度するわけでもない。人間もなんでもすっとやる、考えすぎないということなのだ。現在に集中することも同じことになる。人間は敢えて現在に集中しないと、過去や未来を考えてしまう、そうでないと安心できないと勘違いをしているそんな生き物なのである。自由もそうであるが、「安心」の意味も人間は履き違えているのかと思う。起きた不安を打ち消すのが「安心」ではなく、不安を起こさないのが「安心」なのである。自分の中にある絶対性、普遍性(仏)を呼び覚まさないといけない。

 

絶対的見地(一段上の次元)ー勝義諦から、客観的に自我を見つめる、それができることが、少しでも安心や自由に繋がるということであろう。