蝶やカブトムシのような昆虫は、卵から幼虫、幼虫から蛹、蛹から成虫というように体の形を大きく変える。これを完全変態という。子供の時に、アゲハチョウの幼虫が蛹になる様や、そこから蝶が出てくる様をみて、その不思議さに魅了されたものだ。蛹においては、幼虫という散逸構造から、成虫という全く違う散逸構造にドラスティックに変化する。蛹の体の中では、一旦幼虫の体の組織がどろとろになって、羽や蜜を吸う口などが再構成されるという。

 

これはまさに、散逸構造の自己組織化の作業であろう。一旦、入力や出力になるエネルギーのやり取りはなくなり、自己完結する組織変化が起きるわけだ。これは、自分の力だけで、その構造を画期的に変化させることである。そして、蝶になれば、新たな入力、出力が生まれ、飛び回り、配偶者をみつけ、交尾し卵を産む。卵は、その出力の最大のものとなり、その構造を保てなくなり、死ぬ。

 

蝶を例にとれば、幼虫の時は、葉を食べてエネルギーを貯める。消化はネゲントロピーを貯めることであれば、糞によりエントロピーを排出しながらも、蛹における入出力のない閉鎖系における構造の再構成(自己組織化)に備えて、ネゲントロピーを貯めるステージだ。ネゲントロピーを「ゆらぎ」と考えれば、その「ゆらぎ」を成長し溜めることで、ある一定の閾値を超えると、その「ゆらぎ」に幼虫という構造が耐えられなくなり、自己組織化が発生する。

それが蛹における変化になる。「ゆらぎ」は成虫の体を作るという自己組織化で消費され、最後、羽化で成し遂げられる。

成虫は動き回り、「蜜」という「葉」よりエネルギーレベルの高いものを自由エネルギーとして、行動し、寧ろ、飛び回り配偶者を探すことで、エントロピーを排出する。幼虫の時よりも、ずっと大きな、環境の「ゆらぎ」にさらされるのだろう。それになんとか対応しながら、残ったネゲントロピーを全て卵にこめて、ゆらぎに耐えられなくなった体は死を迎えるのだ。

 

ウスバカゲロウのような成虫は、成虫では水を取るだけという。すなわち成虫になるとネゲントロピーを溜めることなく、配偶者を探し交尾することに全力を注ぎ、とにかくエントロピーを排出し、残りのネゲントロピーを全てを卵に込めて、あとは死ぬだけである。逆に、幼虫の時は、これはアリジゴクであるが、一切糞をすることもなく、アリを食べ続けて、ネゲントロピーを貯めて、自己組織化すなわち羽化に備え、またその後の成虫の行動に備えるのである。

 

なぜこのようなやり方をするのかを考えてみた。それはきっと、自然というゆらぎの大きな環境下で、ウスバカゲロウ成虫のような弱い構造で、変温動物が長期間飛び回り、しかも卵を産むためのネゲントロピーをキープするのは難しいのであろう。だから、その期間を最小(ウスバカゲロウの成虫の寿命は1週間と聞く)にして、その期間は、子孫を残す時間として、残りの時間を環境負荷が小さい、最小の自由エネルギーをインプットに、長期間、環境負荷に耐えられる散逸構造をとる、それがアリジゴクの構造に違いない。またネゲントロピーを体内に溜める(ゆらぎを体内で作り出す)ことによって、環境からうける「ゆらぎ=自由エネルギー変位」に左右されないで、閉系でも一定の「ゆらぎ」を実現することで、羽化という構造変化の自己組織化を実現しているのであろう。

 

 

さてこれは昆虫の話であるが、基本的にも人間でも同じではないか? なぜ人間はネゲントロピーを貯めようとするか? それはマクロ構造に「ゆらぎ」を作ることで、ミクロ構造の自己組織化を促すことではないか? しかし人間はアリジゴクと違って、自分のいる環境を「衣服」や「家」や「空調」でコントロールし、必要な自由エネルギーはいつでも調達できるようにしている。だから、自分でネゲントロピーを貯めて、揺らぎを生み出す必要もない。むしろサーチュイン遺伝子のように、飢餓状態の環境においた方が、長生きするという事態だ。すなわちネゲントロピーを溜める必要もなく、環境からうける揺らぎにもっと身を委ねた方が、自己組織化を促すことができるのかもしれない。

 

人間は変態はしなくとも、体の中、脳の中で自己組織化は死ぬまで起きているであろう。その環境を死ぬまで整えることが、究極の生きるヒントであることは間違いないだろう。