人間は生死のためにさまざまなアクティティを展開する。

また、生死に疲れれば、生死即涅槃の考えをすることで、涅槃を目指してアクティビティを展開することもある。

 

これは自己組織化する散逸構造、特に脳内に仮想的に生成する散逸構造から見たらどういうことなのだろうか?

 

身近な例(思いついたものから)を挙げながら、説明することにする。

 

最初は、「お風呂」とする。

 

お風呂というものは、自分が持っている熱エネルギーより、大きな熱エネルギーを、風呂を沸かすことによって、作り出し、そして、その自由エネルギーを体内に送り込む。そして体を洗って、体の中の老廃物の排出を促す。汗を掻くことも同じで、熱を出すことは、エントロピーを増大させる。

 

正に散逸構造に必要な非平衡状態を作り出して、散逸構造の自己組織化を促す行為ということができるのではないか?風呂に入ることで、エントロピー増大(エントロピー排出の最大化)による、自己組織化の活性化ができることが、風呂が気持ちいい理由ではないかと思う。一方で、風呂に入り、だんだんのぼせそうになった時に、出ようか出まいか?と考え、出た時に、涼しいところにいけば、また爽快な気分になる。これは、のぼせてくると自由エネルギー原理が働いて、散逸構造に必要な自由エネルギーに最小化してゆくプロセスに、爽快感や安心感を感じることではないか?

 

風呂に入り、心と体をリセットすることで、新しい発想が生まれるとしたら、散逸構造の動きを活性化することで、自己活性化を新たに促進する行動であると、考えることができる。

 

そのためには、風呂を沸かす(ガスを燃やす)というエントロピー増大、それを環境と中和させて(あるいは空調を使って)エントロピー増大を更に行う、という条件が必要になる。それは必要だろうか?それとも不必要なのだろうか?

 

現代人が、新しい仮想的な散逸構造を次々と生み出したり、それを維持するのに苦を感じたりするのであれば、必要悪といえるのではないか?