前回人間は、脳を使って、情報を集めて、情報ネゲントロピー作り出して仮想的に内部生成モデルを作り、情報を保管する。その保管場所は、体内だけではなく、書物やコンピュータの記憶媒体など様々で、それを世代を超えて使うことで、より多くの情報ネゲントロピーを作り出していることを説明した。

 

この活動は、物理的な熱エネルギーをネゲントロピーとして貯めるわけではなく、仮想的な情報として集めるものであるから、そのエネルギー効率は比較的よく、その活用スピードも神経回路という電気エネルギーにて作り出すものであるから、即時に推論が可能となる。だから、この仮想的なモデル上で、刹那に新しい生成モデルを作ることができると想像する。

 

例を挙げれば、このブログも一種の仮想的な散逸構造と言える。それは私という自我が作り出したものであり、入力として私が集めてきた情報(インターネット上の情報や書籍の情報)と自分の知識を元に、新しく情報を秩序化した文書を掲載している。こうして情報エントロピーが大きな世界から、データを収集、整理して、新しい秩序を作って、情報ネゲントロピーを生成するわけである。ブログを読んだ人は、そのネゲントロピーを受け取って、新たに自分の作るネゲントロピーに組み込んだりすることができる。

ただブログを全く更新しないなどしていれば、誰もそれを見なくなって、結局情報エントロピーは増大してしまうのであろう。

 

このように、自我というサンドボックスの中で、様々な散逸構造は自己組織化するのではないか? それが仮想的な世界であるゆえ、瞬時に自由に生成することができる。また、自我という自由意志を持った環境(サンドボックス)で、あるベクトルを持った散逸構造を創造することができる。これは自己組織化した結果であると言えるが、自我という主体が、意図があって生成したものとも言える。人間が自我を得たことによって、このように自由意志を手に入れた。それは、自我というサンドボックスの中で、自己組織化した散逸構造が、できては消え、そして少しずつ進化して正にサンドボックスのように自由に、散逸構造が自己組織化することではないか?

 

だから自我は仮想的な散逸構造を自由に自己組織化できるサンドボックスであると言えるのではないか?その結果として、我思う我があるとしたら、なんとも面白い。