自由エネルギー原理では、脳内に生成モデルという現実世界をモデリングしたものを持ち、それを使って最も自由エネルギーが小さくなるよう推論し、行動を決定する。このリアル(フィジカル)とバーチャル(脳内モデル)の両方を持つことで、できるだけ正確な推論(未来の予測)が可能になる。

 

それは全ての生物がやるわけであるが、人間にだけ特別なモデルを持つことができると考える。

それは、前回に説明したように、人間は客観と主観を区別できる。主観というのは、自分に関する認識、自我の認識である。そして客観では、自分とは違った他人とかモノとか共同体とかそのような認識である。もちろん自分の主観と他の客観は複雑に絡み合っており、それも時事刻々変わってゆく。それが仏教では、「縁起」という言葉で表されているが、それを人間は、脳内の生成モデルとして持っている。

 

動物も原始的な縁起(変わりゆく自分と他人、モノとの関係)を把握しているはずではあるが、人間ほどそれを明確に、また予測を試みる動物はないであろう。ただ、その予測は外れてばかりだし、外れることによる落胆、失望が苦を生むことになる。それでも人間はそれに固執して、執着する。それが、前回に書いたように、自由意志の実現するための、ネゲントロピー創出につながるからだ。地球環境へ奴隷的服従から解放されて、自由意志を持つために、人間は、地球環境だけでなく、自分、他人、道具(機械)、共同体、社会システムなどを生成モデルに入れ込んで把握、推論、予測することができる。そうやって大きなネゲントロピーを獲得し、自由意志を守る。自由意志を実行に移すには、環境に逆らう大きなエントロピー排出も必要になるが、それを是として、人間社会は発達してきた。

 

先ほど書いたように、「地球環境だけでなく、自分、他人、道具(機械)、共同体、社会システムなどを生成モデル」というものは予測が難しく、自分では制御できないので、苦を生む。それは、仏教でいう一切皆苦であり、その解決には、諸行無常、諸法無我、一切皆空というような考えを取ることになる。それは、

 

「環境と平衡状態にある自己組織化システムは、その自由エネルギーを最小にしなければならない」ことと同値のように思える。

すなわち、地球環境という「マイルドな非平衡状態」それが涅槃寂静であると思うのだが、それに身を近づけるために、諸行無常の考え方で、「自分、他人、道具(機械)、共同体、社会システムなどを生成モデル」を分解して、縁起から予測することを諦めることである。そして、「マイルドな非平衡状態」に近づくためには、自我という自分の意志(自由意志)に関する生成モデルを大きく諦めて(諸法無我)、今現在の刹那の動的平衡における状態変化に対応するだけが、消費する自由エネルギーを最小化できると考えることだと思う。また、動的平衡は、そのバイアスが地球環境のようにマイルドであれ、強い煩悩への執着を伴うハードなものであれ、入力(ネゲントロピー)と出力(出力エントロピー)が釣り合っていれば、維持可能であることも知るべきである(これが一切皆空と思う)。そうすれば、自分、他人、道具(機械)、共同体、社会システムとの関係を全面的に放棄しなくとも、生成モデルを再構成できる。それが生死即涅槃ということではないか?