自由エネルギー原理とは、生物においては

「環境と平衡状態にある自己組織化システムは、その自由エネルギーを最小にしなければならない」というものである。

 

 

 

生き物は生きるために、常に変化する環境に適応するよう、感覚器官から情報を集めて、それに基づき推論、予測を行い環境に前もって適応しようとする。そしてそれが当たったとしても外れたとしても、その情報を元に、次の行動の推論をし、行動する、その繰り返しということである。推論をする時は、その自己組織化システムの構造にネガティブな打撃を与えないように、できるだけ環境と平衡状態になるように、行動を決定する。それが自由エネルギー原理である。最近の脳科学やそれをシミュレートするAI技術では、この自由エネルギー原理が基本となって、もてはやされている。

 

これは、生物という散逸構造が、その構造をできるだけ保とうとするために散逸適応して、環境に即した平衡状態をできるだけ得ようと行動していることに他ならない。どんな生物でも暮らしている地球環境に逆らって生きている種はなく、できるだけ環境とは平衡状態になるように、それによって余計な負荷を散逸構造にかけないように行動しているといえる。

 

さて、その例外として考えられるのは人間の行動ではないか?人間は、環境との平衡状態以上の自由エネルギーを取り込んで、散逸構造を維持するために、その自由エネルギー以上のエントロピーを排出してはいないか?人間はそのような必要以上の欲を持っており、必要以上にネゲントロピーを溜め込んで、その分余計なエントロピーを排出してはいないか?と考えてしまう。

 

あるいはこうではないか? 人間の体自体は、それほど頑強ではなく、その体にて必要以上のネゲントロピーを溜め込むことはできないが、人間はモノを道具として使うことで、人間と道具が生み成す、または社会が作る散逸構造において、ネゲントロピーを大量に溜め込んだり、エントロピーとして消費したりすることができるようになった。そのために環境以上のネゲントロピーの溜め込みと消費ができるようになったのではないか?人間は自分だけでなく、モノや他人を巻き込んだ散逸構造を、脳内でモデル化して、それをあたかも自分自身のように見なすことができるのではないか?それにより、自分だけで処理可能な欲を増幅させることはできないか?その他人やモノを巻き込んだ脳内のモデル化とは、まず自分と他人、モノを違う世界、すなわち主観と客観を理解し、自我を認識(主観)し他人やモノ(客観)を認識し、それを統合化した自我を持つ、それができることで、欲望(煩悩)の範囲が、動物をそれとは較べ物にならないくらいに拡張したのではないか?そのような人間の道具を使い、共同体や社会を作る特性が、自由エネルギー原理を超えた、ネゲントロピーの溜め込みとエントロピーの排出に繋がったのではないかと思うのだ。