人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善とであるに過ぎない。 彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うもの避ける。 正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしている のである。

 

自己愛に根ざした自分自身や他人に対する妥協、優しさは偽であり、真の追求=正義と理性とかけ離れているという主張だ。他人と自分がWin-Winになるのは、神に対しては、偽装と虚偽と偽善=Win-Looseである、この偽は物事をうまく運ぶには便利だが、それは是か非かといえば非だ、特に本当のことを告白する神に対しては、非であると言いたいのであろう。

 

一方、大乗仏教では、方便という言葉があるように、偽と真は一つであるという前提にたつ。もちろん真は是であり、偽は非ということは言えるが、一方で真が非であり、偽が是であることもあるということである。物事は、一つの方向で見たら偽であっても、他の方向からは真であることもあるということだ。

 

真偽の大切さより、是非が大事であるということであろう。原理主義でいけば、真偽は重要となる。神の判断が大事であれば、いつも真である神の判断は重要だ。でも、真偽よりも、是非に価値観があるという考えもある。偽だろうが、是である。どちらかといえば非より是である、とすれば、偽を選択することもあるということではないか?また逆も真なりで、真でも、非とする勇気が必要なこともないか?

 

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」、親鸞の言葉だが、これは正に悪人を善人よりも肯定する「偽」だが、「是」での判断基準である。「真」に潜む「偽」や「偽」に潜む「真」を見つけることができれば、是非の逆転はあり得るのであろう。

 

それを勝手な「自己愛の肯定」に使っては、もちろん本末転倒であるが、それも分かった上で妥協点を探す、そんな謙虚さがあれば、正に方便としてあり得る、なによりも自分ではなく、他人でもない、自他を一つとして考えることができれば、何の矛盾もないのではないか?そもそも、自分にとって偽でも、他人が真と感じれば、それは、真と言えるのではないか?逆に相手が偽と感じていても、自分が真ならば、それは真と考えてなにが問題があるか?要は、客観的な立場(神の立場)からの真偽は、是非の立場に大きく影響を与えないと思えばよいのである。

 

偽善を疎むことは、意味があるようで意味はないのである。