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好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。

好奇心というのは所詮承認欲求を満たすためだけのものだと言う意味であろう。

では小さい子が何でもやりたがるのは、虚栄心か?新しい虫を見つける。乗り物に興味を持つ。人間が月へ足を踏み出すまでやってのけたのは、虚栄心か?米ソの宇宙戦争に勝つという虚栄心はあったかもしれないが、それだけではないだろう。

人間には本能的な探究心がありそれは欲でない。知識欲とも違う。大脳という武器によりそれが可能になったのを、フルに活用しようとする本能的だと思う。


想像力と同じだが、何かを生み出す力がないと、大脳を活用した進歩はない。道具を作る、言葉を喋る、文字を記す、農耕を始める、全て好奇心が産んだイノベーションではないか?

やってみてそれを学ぶ。帰納的発想がないと、新しいものは生み出せない。


理性による演繹的アプローチに限界があることをパスカルは気づいていないのか?


一方で虚栄心と好奇心が紙一重であることも確かだ。流行を追うこともそういう心理だろう。

また見栄を張る前に、共感してほしいというのもあるであろう。それは自分の好奇心を正当化するための感情かも知れない。いいねというやつだ。好奇心や想像力は、アジャイルに試しながら確固たるものにするとしたら、共感による確認は必要なプロセスではないか?


だから好奇心は虚栄心だけではない。アダムとイブがリンゴを食べたのは間違いではなく、人間はそのような行為をやり続けて、進化する動物だ。そこには、好奇心や想像力は必要だと思う。