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真の雄弁は雄弁を馬鹿にする。真の道徳は道徳を馬鹿にする。つまり、規則などない判断の道徳は、精神の道徳を馬鹿にする

幾何学的な考えからなる道徳はすなわち演繹的、論理的に導出される道徳である。それは自利と利他が絡み合った道徳であり、結局自利のための利他だとすれば、それは真の道徳、すなわち神との約束に従った純粋に隣人と神だけの判断の道徳から見て、馬鹿にされてしまうと言うことであろう。


論理的に考えることは結局自分のため、自我の論理の範囲は結局、自我の利益、自利に基づいていると言いたいのであろう。それに比べて主観的直感的な判断には、自利のための欲動に突き動かされる一方で、遺伝子レベルの自利、すなわち個人の自我ではなく種の保存の直感に突き動かされることもある。卑近な例は、母性愛、母親が子に対する行動は論理ではなく、絶対的な判断だ。この自我ではなく遺伝子に由来する直感が、人類としての真だとすれば、それは則ち神の意志、神の精神に他ならない。そのような真を見つけた、慈愛を見つけた人こそ尊敬されるべきと言いたいだろう。

ただどうだろうか?

人間そんなに完璧になれるであろうか? 結局人間は自我=精神から抜け出れないのではないか?また、遺伝子の意志も結局は自分の意志ではないか?また、遺伝子の意志に基づく直感と自分の欲動に基づく直感をきれいに区別することが出来るのか?


親鸞はそれは無理です、と言った。私もそう思う。