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幾何学の精神と繊細の精神との違い。
前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。 したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ あたまを向ければ、原理はくまなく見える。それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。
ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける までもないし、無理をする必要もない。ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない とうことがほとんど不可能なくらいだからである。ところで、原理を一つでも見落とせば、誤りにおちいる。 だから、あらゆる原理を見るために、よく澄んだ目を持たなければならず、次に、知りえた原理に基づいて 推理を誤らないために、ただしい精神を持たなければならない。
 
ここで言う幾何学的とは演繹的普遍的と解釈する。物事を汎化して抽象度を上げて、自明な事実(公理)を出発点として、演繹的に物事を導出する。一見神に近づいたように見えるが、仮説検証からは抜け出せない、仮説は神に委ねたままである考えだ。
一方繊細的とは、帰納的習慣的と解釈する。具体的に起きた事象を本能的直感的に把握し、その習慣や事実の範囲であるが、身体が感じる正しい感覚、それが善であると思うものを是として、その瞬間瞬間、良いと思う道を選択してゆく。
ところで、原理を一つでも見落とせば、誤りにおちいる。 
身体が感じる正しい感覚は一歩間違えば欲を果たすための悪となる。
次に、知りえた原理に基づいて 推理を誤らないために、ただしい精神を持たなければならない。
正しい精神が必要なのは、本能は決して本質は利他的ではないからである。
 
幾何学の精神と繊細の精神、人間にはこの2つのバランスが必要だ、どちらに偏っても、正しい方向に導かれない。それは結局人間は、両方の精神ともに不完全であるからだ。