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「人間は、ものごとの原初もその終極も知ることのできない永遠の絶望のなかにあって、それらの中間にある何らかの見かけをちらっと見ること以外に、一体何ができるというのか。すべてのものごとは無から発して無限へと運ばれていく。この驚くべき行程に、一体誰がついていけるというのか。これらの奇蹟を創造した者だけがそれを理解する。他の何者にもそれはできないのだ。 これらの無限をはっきりと見つめることができなかったばかりに、人間たちは無謀にも、自然の探求に乗り出してきた。まるで自分たちが自然となんらかの釣り合いをもっているとでもいうように」

無から発して無限に運ばれるとはいかにも魂を不滅とするキリスト教的な発想だろう。仏教の輪廻では無限から無(解脱)と反対である。本当のところは人類として無限から無限へ流れる中で、人間の自我は無から無へ変化すると考えるのが自然であろう。所謂行く川の流れは絶えないのと、自分の一生は川の一滴から生まれた淀みに浮かぶ泡沫である。

無限を無限と認識した上で、鏡の中に自分を観るように、そのものではない、パスカルに言わせれば「見かけ」であるにしてもそこに映る客観を主観として取り込み、それを智慧に活かして今を生きる。不生不滅を理解すれば、自分自身にとって無限は両極端でなく、今にあることに気づくのではないか?

これらの奇蹟を創造した者だけがそれを理解する

その通りであるが、人間は神になれないし、なろうとすること自身未分不相応だと認識すれば、中に対する意識はより建設的に前向きになるではないか?今を生きることの意義が浮き彫りになるのではないか?