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というのも、空間、時間、運動、数が存在するというような第一原理の認識は、われわれの推論によって与えられるいかなる認識よりも確実である。そして理性は、このような心と本能による認識をよりどころにしなければならず、理性によるすべての論述は、そのような基盤の上に構築しなければならないのである。心は、空間には三次元があることや、数は無限であることを感じる。次に理性が、一方が他方の二倍になるような二つの平方数はないということを証明する。第一原理は感じられ、命題は論証されるが、それぞれ異なった方法によるとしても、すべては確実に行われる。だから、理性が心に、「第一原理に合意させたければ、その証拠を差し出してみよ」と求めるのが無益で馬鹿げているのと同様に、心が理性に、「君が証明する命題のすべてを受け入れさせたければ、それを感じさてみよ」と要求するのも馬鹿げている

パスカルは身体、精神、慈愛の3つの秩序があるとした。そしてそれは不可分であると。身体には本能があり、精神には理性があり慈愛には心と直観があるのだろう。
心と直感には、理性で導けるような根拠はない。ぞれは、自我を持って考えられる自利の為の論理ではなく遺伝子に組み込まれた大我が、人類の生き残りのために仕込んだメカニズムであるからだ。例えば生命が老化して死ぬというメカニズムは、種の新陳代謝には必要不可欠なことであり、だからテロメアという命のロウソクは老化によって減るように作られている。それは、個人の自我にとっては耐え難い病苦に繋がる。そのような大我、運命に従い生命の創造主の立場から直感に従い行動する、それが道徳な善に従い行動すると言うことである。

そのような直観は本能の一部と言える。人間の本能には自分自身が生きるための本能と種として生き残るための本能がある。動物にもその2種はあるだろう。この2つの本能は相反する場合がある。例えばキリンの母親は、健康な子は献身的に世話をして一人前に育てるが、障害がある子は、簡単に育児放棄する。自分が生きる本能が、種を保存する本能に勝ったからである。健康な子であれば、種を保存する本能が、自分が生きる本能を上回る。
人間ならどうだろう?人間は身体と本能では、生き残るため外敵には太刀打ちできなかった。よって精神と理性で対抗し、その戦略は成功した。その結果、個体の生存のための本能は、個体の利のために使われる理性と結びついて、飽くなき欲の追求とそのために使われる理性の高度化が実現した。一方種として生き残る本能は、やはり理性と結びついて道徳と社会規範を作り出した。

パスカルはここでは後者の理性は決して、種としての本能に裏打ちされた直観を説明できるものでないとしている。そういう意味では、直感や本能が上位にあり、理性はそれを助けるものでしかない。一方この理性があるから、個体の生き残りを目的とした欲と自利のための本能と種の繁栄を目的とした利他のための本能の間をコントロールして、自己の欲のための情動をエンジンにして、種の繁栄を実現する直感を舵にして上手い着地点を見つけることができる。

先程のキリンの母親のことを例に取れば、人間なら、障害がある子が生まれても見捨てないのは、本能に左右されない理性の制御ができるからである。また見捨てなくても生かすことができるのは、生活の質を改善する欲を果たすために医療を発達させてきたからである。そのような倫理的な善が人類を持続的に繁栄させるとしたら、理性も捨てたものではないと言える。それが智慧なのだろう。