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われわれは精神と同じくらい自動人形である。だからこそ、納得のための道具は、論証だけにかぎらないのだ。そもそも、論証済みのことがらなど、いかにわずかしかないことか! 証拠は精神しか納得させない。習慣は証拠をもっとも堅固にし、もっとも強く信じさせる。習慣は自動人形を傾け、精神は知らぬまに自動人形に引きずられていく。

 

理性と精神を持って事に当たる、それが動物でなはく人間のなせる技であるとパスカルは考えた。それに比べて動物は、自動人形、理性を持たず本能の赴くままに行動するだけとした。人間も、自動人形の側面があり、すなわち習慣化して、理性をもって考えて判断しなくとも、無心のうちに習慣化したことを実行する、特に衣食住と基本的な生きるための行動は、習慣化することで、呼吸するように無意識化できる。理性と精神は、頑張ってなにか実行することができても、それが無意識化した習慣の方が、その実行力は上となる。人間は、動物のような本能的な行動を習慣化して、無意識化するだけでなく、理性と精神で編み出した、動物にない高次な人間的な行動も習慣化できる。たとえば、ただ食べるという本能的な行動も、朝昼晩の食事のように習慣化できるし、毎日神様に感謝して質素に暮らすというような人間的行動も習慣化できる。

 

理性に依った判断は、演繹的判断といえる。すなわち何をするべきか?客観的な判断を見つけ、それに基づいて実行する。それによって、自我が良いと選ぶ最適な案を採用することができる。しかし弱点は、それが最適かどうかは未来のことであるからわからないうちに行動に移さないといけない。一方で習慣は、経験に基づいて無心のうちに実行されるものであり、帰納的判断と言えるであろう。未来を予測する必要はなく、実行に移してから、修正すればよい。帰納的判断は、パスカルからみれば原始的なやり方に見えたかもしれない。すなわち人間しか持たない精神と理性を使わなくとも良い。でもパスカルも習慣の効果は認めている。その方が強固でもっとも強く信じさせると。

 

仏教においては習慣と帰納的判断は大事にされる。禅で大事にされる所作や瞑想、念仏も習慣である。そのようにやって見ることで、智慧が身に付くという考えである。キリスト教においても習慣を大切にするのは同じであろう。理性と精神の上位にある、慈愛とか信仰を持つものの智慧にあたるものは存在する。ただ、身体があって、精神があって、その上に慈愛があるという三つの秩序をパスカルは階層的に考えており、身体のもつ自動的側面は、動物がそれに支配されているように、精神や慈愛より、低い秩序として認識されている。しかし本当にそうだろうか?

 

食べるという身体的秩序に基づく習慣に、食べる時に感謝をしながら残さずに食べるという慈愛の秩序に基づく習慣を掛け合わせることができるではないか?その二つは相矛盾するものではない。身体的な欲に基づく習慣からの判断と理性の極致である慈愛(慈悲)に基づく判断を掛け合わせれば、帰納的かつ演繹的な、動物でも神でもできない、人間にしかできない判断ができるのではないか?