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想像力とは、人間のあの支配的な部分、誤謬と虚偽の女主人である。ところが、いつもそうであるわけではないだけに、いっそう始末に負えない。というのも、もしそれが必ず噓の判定に役立つなら、真実のまちがいのない基準になるだろうからである。しかし、それはたいていの場合は虚偽でありながら、決して自身のもつ虚偽性の痕跡を与えてくれない。真にも偽にも同じしるしを刻みこむからだ。
 
人間が考えて判断を下す場合、それが正しいとも間違っているとも限らない、それは当たり前のことだ。判断となる根拠が全て揃わなければ、すなわち真偽が明らかになってから判断しなければいけないとすれば、いつまでたっても判断ができず、機を逸してしまう。そもそも判断が間違っていたから、世の中が終わりになるわけではない。判断には真偽はないのである。
 
そういう前提に立った上で、想像力からの判断とはなにか? まず反対となる理性的な判断を考える。数学の世界を考えれば、だれでもわかる自明な事実から始まり、それを仮説として論証できることが理性的な判断だろう。自明な事実だけでなく、経験的な真も含まれるであろう。理性的な判断とは、それゆえ必ずしも真とは言えないが、納得性、再現性があると言える。
 
それに対して想像力に基づいた判断とは、そのような仮説に基づかない、あるいは自己の生み出した仮説に基づいた判断となる。自己の感性に基づいた判断と言える。想像力が支配する世界を考えれば、真偽が曖昧というかそれが意識されていない判断になる可能性が高い。パスカルはそれを「たいていの場合は虚偽であり」と表現しているのであろう。
 
想像力が暴走して妄想になると、それは手がつけられない。プーチンのウクライナ侵攻も、トランプを熱狂的に支持する人たちも想像力が暴走している。ナチスドイツや、日本帝国陸軍においても想像力が暴走して、ひどい結末になった。それは偽としか言いようにないが、パスカルは、「真にも偽にも同じ印を刻み込む」と言っている。戦時下ではだれもがナチスや大東亜共栄圏を疑わなかったし、その当時は「偽」ではなく「真」であった。もし別の結末、大戦の勝利に繋がれば、本当に「真」となったかもしれない。
 
今の世の中にも想像力の暴走はあらゆるところで起きていると思う。人間が間違いを犯すのは、迷える子羊にとって、この世の中を渡っていくには理性だけでは解決できないことが多すぎるからだ。だから想像力に頼る。弱い人間が想像力に頼って、実行力を身につける。その想像に多数の人が共感して群れれば、さらに大きな取り組みになる。
 
一方で想像力は、理性だけでは生み出せない今までにないような真を生み出すこともある。ニュートンにしてもアインシュタインにしても今までの理性の枠から、想像力によりはみ出すことで新しい真実を生み出した。そのような「ひらめき」なしに、科学の発展はないし、それは想像力と理性をうまく組みわせて、神には及ばないが、この世の真実に近づこうとしている。理性だけでは、進歩は生まれない。もちろん想像力だけでも進歩しない。理性を超える第一歩をひらめきで獲得して、理性を広げてゆく。そう言った意味で想像力は人間が多少でも神に近づく上で大事な能力だと思う。