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だから、地位や役職ゆえに尊敬される人たちを、軽蔑しないでおこう。人は、誰もその借りものの性質ゆえにしか愛さないからである。

 

世間一般の尊敬とは、自分がそうありたいゆえに他人の性質を愛するだけで、その人自身を尊敬しているわけではない。前回の「愛する」と同じで、尊敬することも、自分の欲望を満たす上で現れることでしかない。尊敬することがそんなものであるから、尊敬されることも大きな意味はない。だから、地位や役職だけで、立派な人間でなくても尊敬されることがあるだろうが、だからと言ってそれを軽蔑するに値しない。尊敬するに値しないが、軽蔑するにも値しないのである。人がお互いに尊敬し、尊敬されるそれは茶番だということであろう。パスカルは、ただ茶番であるが、規律を保つために必要なことだとも言っている。

 

パスカルにとって尊敬の対象とは神以外にはないということになる。しかしそれは悲しいではないか? 愛することに意味がないというのと同じである。その人の性質にしか尊敬はできなくても、その人そのものに共感することはできないか?その人の尊敬できない性質にも、共感することはできる。共感の先に尊敬があり、尊敬の先に共感がある。そう考えれば、尊敬も意味があるのではないか?

 

そこまでいくと人間を好きか嫌いか?のところまで来る。人間を好きであれば、共感できるし、慈しむことも自然とできるであろう。尊敬とレスペクトとの違いという気もする。

 

地位や役職がある人だから、尊敬されるから自分の思う通りに人生を設計できるわけでもない。尊敬の裏返しには軽蔑がある。安倍首相の人生を考えてみれば良い。安倍首相が自分の思う通りの人生を歩めたのだろうか? 尊敬を集めたことも確かだが、憎しみを生み出したこともあるだろう。それは常人にはかなり辛いことには間違いない。けれども、一国の首相は誰かが担わないといけないし、担える人材がそうそういるわけでもない。

 

先の野田元首相の国会での安倍さんに対するはなむけの言葉は、尊敬というより共感だった。憎むべき政敵でも共感できるわけだ。尊敬即共感を地で行ける人が、本当のインクルーシブなリーダーであろう。ダイバーシティの世の中では、望まれるリーダー像であろう。