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人は決して相手そのものを愛するのではなく、その性質だけしか愛さない。

 

ものにしても人間にしても、人間が捉えるのは五感により情報と入力され、それが情報処理されて感情が生まれる。そういう意味では、確かに捉えられる客観は、性質であり、その人そのものではない。

そもそもそれを捉える自我も、仮想的なものではないか? 自我という意識は物理的な人間そのものではないのである。

「愛する」といっても情報処理した結果、何らかの感情あるいは本能に基づいた欲を満たす行動の動機になるとしたならば、それは自分のために生んだ感情でしかない。仏教でも十二因縁では、六受から入った感覚は、渇愛につながり、最後は煩悩へと繋がる。その根本は無明ということになる。そう考えれば、「愛」という感情は自分の欲を果たすためのものであるのに、あたかも相手に何かを与えるような錯覚が持てる感情なのかもしれない。

 

愛と対照的なものは慈愛である。キリスト教でも、自己犠牲と慈愛は大切な神との約束のポイントだし、仏教でも慈悲は、無明を解く大事な考えである。慈愛は真に他人のために行動することであり、自分の煩悩にとらわれない行為である。パスカルも乗合馬車を作るなど慈善事業に力を入れた。パスカルは愛は信じなかったが、キリスト者であったし慈愛は信じたわけだ。

 

ただパスカルと異なる見解を私は持つ。愛もそれほど捨てたものではないと思う。すなわち100%の愛はなく、慈愛の側面が含まれるはずである。相手との共通項や絆を出すことによって、自分でもなく相手でもなく自分と相手が一つになった何かを見出す。もちろん完全な一つではないが、2つでもない。不一不二である。不二は、結局自分を愛することと相手を愛することの共通項を見つけることだ。そうすれば、Win Winではないか。それが慈愛の始まりである。

 

西洋において個人主義が進むと、そう考えるのは多少難しいのか? しかしパスカルは慈愛を大切にしたし、キリスト教もそれに基づいている。ただ個人のと神との契約の中での慈悲を考えるということであるが、もっと身近に家族とかパートナーとかそこから不二の門をくぐる方が、自然では?と思う。

 

愛即慈の精神に基けば、相手の性質を愛しながら、相手そのものを慈しむことができるのだと思う。それが自然な奉仕の精神であるだろう。