久しぶりになってしまいましたが、暫くは最近お気に入りのパスカルのパンセのフレーズから、「中」を考えてみることにした。

今日は最初です!

 

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人間はあまりに必然的に狂っているので、狂っていないことが、狂気の別の現われ方 によって狂っていることになってしまうほどだ

 

 

狂っているとは、ある意味自分の思いのまま、本能のままに行動するということだ。それは、「まとも」と呼ばれるな人間からは、狂気に映る。煩悩に赴くまま、動物のように行動することは、動物から脱して神に近づこうとする人間からは、「狂っている」と映ることになる。

 

本能の赴くままに個々が行動しては、社会は成り立たず、規律は成り立たない。それが非道徳的であり、反社会性を産むわけだ。「狂っている」という判断は、その辺から生まれるものだと思う。そのような行動が、決して最終的な人間の幸せに繋がらないと説くのは、宗教であり個人ではなく、人類としての進歩・進化の方向なのであろう。

 

さて、ではそのような「正気」を追求し続けるとどうなるであろうか?例としてプーチンを挙げる。プーチンは自分では正気である。ロシア民族にとって、その繁栄を確固なものにして、ロシア正教を道徳的な正として、その拡大に努める。

 

 

私たちに映るプーチンの「狂気」はロシアには「正気」なのだ。「正気」の見方を変えれば、「狂気」になり、逆も起きることはここで明らかである。

 

そういう意味で、我々はどちらにしても、「狂っている」ということになる。煩悩を追い求めてしまう点でも、煩悩を滅却して道徳を追求する面でもそうだ、どちらにしても「狂っている」という見解である。だから道徳的に完璧である「神」を追い求め、行動する。

 

「正しい」と判断した瞬間にそれは正しいとは言えない、「間違い」と判断した瞬間にそれは間違っているとはいえない。我々は神ではないので、その理解ができることが、「狂気」のパラドックスから抜け出る唯一の方策ではないか?