義理の母のソフトウエアの開発が仕事だということを言った時に中々理解してもらえなかった経験がある。鉄を作っているとか、車を作っているとかとは違って、ソフトを作っているというのは、その仕組みが分からなければ中々理解し難いものである。

 

しかしながら、ソフトを作っていることがバーチャルなら、たとえば教師のように、なにかを教えていることも情報を伝達しているだけだとするとバーチャルだし、もちろん銀行業や保険業もバーチャルだし、結局職人や農業従事者でない限り、ほとんどの人間の営みはバーチャルである。目に映るもの、五蘊が全て無自性であるとかんがえれば、全ては神経が捕捉した電気的信号を伝達したり、情報処理したりしているにすぎない。それはコンピュータのソフトウエア上の処理と大きくは変わらない、自我はバーチャルであり、体が機能不全を起こせば、なくなる、無自性なものにすぎない。それが「私」の実態であることは間違いない。

 

では、自我は「ない」のかといえば、そんなこともない。私は毎日色々なところに行くが、どこに行っても人とぶつかることもなく、時間通り行動できる。視覚がバーチャルで幻だとしても、物理的に他の人とぶつかることもなく電車にのり、会社へいけることは、紛れもない事実である。そのために視覚を使っているのは、全くの幻ではないからである。会社に行くことは高度な論理的思考は伴わないけれども、そこに関連する五蘊は全くないわけではないのである。ちなみに、人間のような自我を持ってなくても、動物でもぶつからずに成功裡に移動することはできる。そういうプリミティブな自我であれば、あると考えたほうが世の中をより正確にモデリングしていると言える。だから虚無主義は、決して正しいとは言えない。

 

一方で高度な論理的・演繹的思考は、思い通りにならない苦に繋がることは、仏教が示す通りでもある。その部分は、「ない」を適用する方が、うまく解決できることもある。そこ(演繹的思考が生み出す意識)は動物には、人間と比較してあまりない領域であり、人間も動物の一種と考えれば、「ない」を生きるヒントに使うのはとても大事である。

 

ソフトウエアは有るのか無いのか?に戻れば、それは今の人間の作る社会においえは有るいうことだろう。例えば、犬や馬にとって、それは有るということにはならない。そしてそれが人々の暮らしを少し便利にするとすれば、なおさらである。

 

ただあり続けるものでもないのは、それはなんでもそうである。それは自分という存在も含められる。


あり続けるから有るのではなく、少しでも意味があったことが有ると言うことだ。少しでも意味があれば、ないということにはならないのである。