自我というものが他の生き物にはなく、地球上の生物の中で人間だけが持っているものとするならば、なぜ人間は自我を持つようになったのだろう。

 

それは、ただ行動するのではなく、なんかしら行動するまでに、自我により分別を行い行動を決定するプロセスが必要だったからであろう。そうすると、大きく分けて三つのフェースができることになる。

①事象(複数の場合あり)が起きてから、分別するまでの計画するフェーズ

②分別する条件が揃った時に、分別し、実行するフェーズ(瞬間)

③実行した結果、結果事象を観察するフェーズ

 

①ー③にわたって、仮説であるとはいえ、ある判断は、自分の中で持続する。これが、「有る」であり、③の結果、「有る」は「無い」に変わる可能性はあるが、少なくともしばらくは持続するし、それが記憶に止まれば、次に想い出されるまで持続する。

 

このように仮説を立ててそれを試してみて、効果を見ることで、能動的に行動することができるようになる。この推論エンジンが自我であり、環境に左右されずに柔軟な判断を持って行動し、他の動物に対して差別化し、生き残るために必要だったのであろう。それが自我の存在理由であり、「我思う故に我あり」のように最初から我があったわけではない。

 

そしてその推論エンジンによる分別が苦を産んでいるとしたならば、ひとつは仮説は仮説と理解して、アートマンではないことをよく理解し、分別を諦めるのが一点、もう一点が分別を諦めるというより、分別は仮説からきた行為であることを認識し、分別の効果を正しく理解するのが2点目であろう。十二因縁で言えば、「識」を滅するのか「無明」を滅するのかの違いである。

 

生死というか分別という人間の営みを否定してしまうと、特に社会生活の中では、生きることはできなくなるので否定するのはおかしい。だから否定するのではなく、無常な面を正しく理解するのが必要となるのであろう。