【觀邪見品第二十七】

「誤った見解の考察」と名付けられる第27章

 

27-5 離有無身我 是事為已成 若謂身即我 若都無有我

身体に対する執着を離れて、自我が存在することはないという前提に立つと、身体への執着はすなわち自我であるということになり、身体への執着は無自性で一過性のもので有るとすれば、自我は存在しないことになる。

 

27-6 但身不為我 身相生滅故 云何當以受 而作於受者
身体への執着が自我であるということはない。なぜなら、身体は生じたり滅したりするために、執着は無自性であり、その執着の行為者である自我も無自性になるからである。

 

身体に対する執着は無自性であるゆえ、それが過去世から現世へ、現世から来世へ受け継がれることもなく、それによって存在する自我も、確実には受け継がれることはない。「確実に」と言ったのは、受け継がれるものがゼロではないということである。

 

このことは、世を跨がなくとも、現世の中でも言えることで有る。たとえば、1年前の自分と今の自分を考えた場合、同じ自我であるか?と言われれば、執着はかなり変化している。受け継がれるものがゼロとは言わないが、ほとんど変わっているということができるし、そのように執着しないのが、うまく生きるコツになると言える。五蘊仮和合で、刹那に自我が変化することを考えれば、1日前の自分でも成立する。