【觀邪見品第二十七】

「誤った見解の考察」と名付けられる第27章

 

27-3 過去世有我 是事不可得 過去世中我 不作今世我

我が過去の世にあったというこのことは、あり得ない。過去の世にあった我と今の世にある我は同一ではない。

 

27-4 若謂我即是 而身有異相 若當離於身 何處別有我 

もし前世の我と変わらず今の我であり、(身体への)執着が前世と現世で別にあるというのであれば、そのような執着を離れて、そのような変わらないアートマン(我)が、どのように別に存在し得るのか?

 

変わらない我はないということは、前世から現世へ継承するものは何もないというとである。現世は現世で完結するということである。一方で大我を想定できないか?といえばそれも違う。大我を想定して、小我を生きることはできる。大我を敢えてアートマンと見ればそれは、与えられるものであっても、なにか与えるものではない。本能や遺伝という形で与えらるものである。

 

与えるものがあるとすれば、それは大我というより、他の小我に対してである。人が人に対して影響を与えるということはそういうことで、それが慈悲とか愛とかになる。それは世代を超えて受け継がれて、最後は大我になると思えば、意味がある。アートマンはないと言い切れないところは、この点にある。

 

淀に浮かぶ泡沫で考えれば、泡沫は消えてなくなっても、その成分は元の水に戻り、新たな泡沫を作る際に使われるので、新な小我に影響を与えることはできるが、ゆく川の流れを変えるほど影響を与えるかといえばそうではない。ただ泡沫が何億も生まれることは、川の流れの変化に繋がることもあるであろう。

 

例えば、地球環境を考えることは、そのような大きな流れを変えるために、たくさんの泡沫を生む運動と言える。そのような大我を想定できることは、小我のあり方を考える上で、苦を呼ばない「分別」のあり方として大切な要素だと考える。