行とは、業、カルマのことであり、前世の業(行)が、現世の識となって現れるというのが、輪廻転生に従った考えになる。

しかしここでは、同じ現世の中での、業と意識のことであると考えれば、業は遺伝的な情報や、本能的な行動、そして、身業、口業、意業というように、普段の生活習慣の中で形成される、無意識のタネ(種子)のことである。

 

それが意識の世界に表層すれば、なにかのバイアスを持った意識となる。

 

中論の時代の後にできた、唯識では、阿頼耶識に出来た種子が表層して、意識となる様子を定義している。

 

 

単なる遺伝的な業、本能的な業であれば、識がない、すなわち動物でも、行動に結びつけることができる。

例を挙げれば、「生殖する」という本能的、遺伝的な業は、動物でもSEXをするという行動に結びつける。

しかし動物ならそれは繁殖期だけである。

 

人間は、本能的な業だけでなく、思考に基づいた行動規範が業として存在する。すなわち、繁殖期でなくても恋愛等、精神的な状態、あるいは欲望を満たすために、性交渉を行う。これは、本能的・遺伝的な業以外に、識(意識)や名(精神)に基づいた、そのようなカルマが薫習された名色や六処を持つからである。それが執着(取)や老死に繋がってゆく。

 

一方で人間は動物と違って、社会的な生き物であるから、思考に基づいた行動規範として、性交渉に関して倫理を持ち、一定の社会規範を定義する。そのような制約によって、動物のような、ともすれば残酷で非人道的ことを避けることもできる。例えば性犯罪を防止する法律があるなど。それも識や名があるがため、そのような判断ができるわけで、必ずしも、行(業)やそこから生まれる識はネガティブなものでもない。

 

確かに業がなければ識もないが、識をなくして良いかといえば、ないと「生きる」ことができないことになってしまう。「行」は否定するモノではなく、薫習して、変えてゆくものである。本能や遺伝に基づくものは変えることは難しいとは思うが、それ以外は変えられるし、うまく選んで変えてゆくことで、バイアスのない識、名色、六処、触、受が得られるのではないか?