感覚器官がなければ、感覚器官に情報が入ってくることもないという意味であれば、これも当たり前に聞こえる。

でも、六処にも、なにかバイアスがあり、行、識、名色で決まってくるなにか方向性があり、よって入ってくる情報もフィルタリングされるという意味である。我々の六処は、例えば眼にしても、カメラのように映像をそのまま捉えるのではない。取捨選択して情報が入ってくる。それは目で情報を取捨選択しているというより、最初から取捨選択してしまう眼を持っているという方が正しいということであろう。

 
人間が、視覚や聴覚、匂い、触覚などに一喜一憂し、感情を持つのも、そもそも分別する感覚器官を持っているからではないか?それがその通りであれば喜び、期待はずれであれば悲しむ。贔屓のチームが勝つ瞬間を期待して、負けた姿をみて落胆する、それはそういう「眼」でテレビを見ているからで、ニュートラルな眼ではない。
 
勿論初見であったり初の体験であったり、不意に五感を働かす場合は、ニュートラルな感覚器官で、「触」が成り立つこともあるであろう。ただ、常に人間はそうやって行動しているか?といえば、そうではない。
 
意図があって情報を得ていることが、ほとんどだと思う。でもいつもそれを意識して気づいているわけでなく、自然とそうしてしまうことも多いであろう。でもよくよく考えれば、かなりのバイアスがかかった上で、六処を働かせている。それに気づけば、きっと様々な重ーい気持ちを少し軽くできるのではないか?
 
森林浴をしたり、自然の中で過ごすと、五感のバイアスがリセットされてニュートラルに戻る気がする。瞑想をする、マインドフルネスを実践することも同じ効果ではないか? そのようなバイアスのかかった六処をなくすことで、執着に繋がる「触」をリセットできるのだと思う。