「受」とは、単なる感覚器官における感受ではなく、自分(主観)に入ってきた情報である。すなわち主観は素の感受した情報ではなく、フィルタリングして情報を取り込んでいる。

例えば贔屓のプロ野球チームの中継を見ている時に入ってくる情報と、全く関心のないチームの中継を見ている時に入ってくる情報はまるっきり異なる。人間は自分にとって都合のよい情報を取捨選択し、かつバイアスを持った見方で加工して取得しているのだ。この偏見に満ちたものの見方が、「渇愛」に繋がる。

 

人間は、見ようとか聞こうとか意図を持って感受している限り、一定の方向での「受」はなくならない、すなわち少なくとも少しの「愛」(渇愛)は認められるであろう。ただそれを最小化して、少しでも客観的なものの見方、主客未分での感受作用を心がければ、モノの見方は無我に近づき、普段、刹那刹那で発生する「受」も違う受け取り方になるかもしれない。そのためには、修行(瞑想)が必要であろう。

 

ただ、そうすれば面白みのある人生になるかと言えば、そうは言えないと思う。偏見に満ちたこだわりは、生の躍動に繋がるわけで

絶望へも繋がるかもしれないが、それを含めて極めて人間的だからだ。

 

自然の中で身を任せて生きてゆくような、その刹那,刹那において、極めて受動的な生き方を実践すれば、「受」に自我のバイアスはなくなり、「愛(渇愛)」は最小化されるかもしれない。禅宗はその方向性だと思うし、自然に従うことは、大我に従う、そして渇愛ではなく慈悲を生むことになるのであろう。