この言葉だけをみれば当たり前のように見える。「生」の否定とは不生不滅の理解といえるので、全ては不生不滅で、何一つ確実に生まれたもの、生んだものはないと理解できれば、「老死」もなくなるということになる。では「生」の否定が簡単かというとそうはいかない。

 

それは「生」は、我々の存在の意義であり、与えられたものでもあるからである。それは「老死」にもいえる。それは決定論的な要素がつよく、それは運命として、諦めないといけない要素が強い。

 

 

ハイデッガーがいうように、そこは諦めた(手放した)上で、再構成する必要がある。そうすれば、生を認めつつ、死を認めつつ、それを客観的に制御する「中道」を見出すことができるだろう。「諦める」という意味では、避けられない「老死」の制御をすることは、諦めて、阿弥陀様に任せて、「生」を認めるということも、ひとつのやり方であろう。反対に、修行をし「生」を諦めることで、「老死」を認めるというやり方もあるであろう。

 

いずれにしても「生」を完全に消滅させて「老死」をなくすことは、ブッダも親鸞もできなかったことは、事実である。「生」が無自性であり、あるともないとも言えないことを理解することで、中道の道が開けるのである。