十二因縁、順観の続きである。「受」である意識を持って感覚を捉えると、それは渇愛、即ち好きなものを愛し嫌いなものを憎む感情に繋がる。それが煩悩への執着に繋がり、そこから逃れなくなる。そして行動を左右する。そのような行動が幻ではなく確かにあるもの、普遍的なものと考え、有ることに執着するのだ。

こうして無明という単なる誤った考えが、最終的には確かに自性するものとして認識される。そして遡って受、触、六処、名色、識が自性すると錯覚するのだ。我見、身見をもつようになる。

 

科学的医学的に見ても脳と感覚器官は対等であり脳が感覚器官を保有しているわけではない。

脳に映る感覚器官のモデルを、脳内に保有しているにすぎない。それは電気信号で表されるものであり、当然ながら脳内に、物理的に感覚器官が存在しているわけではない。そのようなあやふやな情報に脳は支配されて、アクションを決めている。我見、身見はそのような事実を認識しない無明から始まっていることは、科学的に見ても正しいと言えるのではないか?