名色にて肉体と精神が出来上がると、次は六処即ち感覚器官が認識される。これは外界からの情報が入ってきて、意識という主観からその境に五感が鏡として主観に映るわけである。

鏡であるから、全くの五感そのものが入ってくるわけでもなく、あくまでも相対的な情報が捕捉される。だから六所より意識が先である。意識に基づいて、六処自身やそこで補足される情報を、相対的に把握するのだ。

 

この六処も識によって異なった認識になると考えて良いと思う。例えば「なにかイライラする」という識があった時の、耳という感覚器官は、音が聞こえる前から「イライラする耳」である。そこに人の話し声が聞こえたときの「触」、即ち情報の受け取り方と、「孤独で不安」という識があり、「孤独な耳」が出来ていて、そこに同じ人の話し声の「触」が生じた時の、受け取られ方は、全く違うであろう。

この差異が「愛」、好き嫌いの受け取り方に繋がり、それが執着へ繋がってゆく。

 

ある意味意識の持ちようでは、感覚器官から映る情報をコントロールすることができるということである。人間は外界からの刺激は、受動するものと考えがちである。即ち、ニュートラルな感覚器官があって、そこに情報が入ってくることで、何かを感じる。しかしそうではなく、最初から行とか識というバイアスがある。だから感受する情報も毎回違うし、相対的であるのだ。それが、執着に繋がり、苦に繋がる。この仕組みは、普段の生活でも常に起きていることがよく分かる。

受動ではなく能動なのだ。人間が何処までも能動的な生き物であることをよく理解する必要がある。この「能動の暴走」をどう止めるかが生きるヒントなのであろう。