【觀涅槃品第二十五】 

「ニルバーナ(涅槃)の考察」と名付けられる第25章

 

25-1 若一切法空 無生無滅者 何斷何所滅 而稱為涅槃

もし、一切の法が空であるならば、確実に生まれるものもなければ滅するものもない、生滅があってもそれは刹那で仮である。そうであれば何を断じて、何を滅することで、涅槃を得ることができようか?

 

25-2 若諸法不空 則無生無滅 何斷何所滅 而稱為涅槃 

もし幾つかの法が空でない(幾つかの正しい法が自性して存在する)とするならば、やはり生まれるものも滅するものもない。そうであれば何を断じて、何を滅することで、涅槃を得ることができようか?

 

世の中が無自性であることを認めれば、仮である因縁の関係は生まれても、全て仮であり、自性する生滅は刹那のみ、持続するものはなにもないということになる。だからなにかを断じたり滅したりすることで、涅槃を得るということはなくなる。

 

一方で世の中に空でないなにかを認めたら、それはあり続けて、滅すること、新たに生まれることはなくなる。だから、あり続ける自性する苦があるとすれば、それを取り除く(断じて、滅する)ための因縁も全て自性することになり、新たに因縁が生まれたり滅したりすることはなくなる。自性する苦を断じ滅する新しい方法は見いだせなくなり、涅槃を得ることはできなくなる。

 

このように、空、不空にかかわらず、涅槃は、何か断じたり滅したりすることで得られるものではない。そのような意図をもっての行為がない境地に、涅槃はある。仮である苦を正しく理解し、それを「仮」と考え、受け入れることができれば、断ずる方策に頭を悩ますこともなく、確実にはないものを断ずる必然もない。もちろん緩和のために仮である苦への対処をしても良いわけだが、それを拘らなくてもよい。そのような「中」なスタンスの中に涅槃はあるということであろう。