【觀成壞品第二十一】 

「生成と壊滅との考察」と名付けられる第二十一章

 

あけましておめでとうございます。ことしもゆるりと参ります。

 

21-1 離成及共成 是中無有壞 離壞及共壞 是中亦無成 

壊滅は生成と離れても、共にあるとしても、全く存在しない。生成は、壊滅と離れても、共にあるとしても、全く存在しない。

21-2 若離於成者 云何而有壞 如離生有死 是事則不然

そもそ壊滅は、生成を離れてどうして存在するか?生まれることを離れて、死ぬことが存在するであろうか?壊滅は出生を離れては、存在しないのである。

 

21-3 成壞共有者 云何有成壞 如世間生死 一時俱不然

どうして壊滅が生成と共に(同じ時間に)存在するであろうか? なぜなら生まれることと死ぬことは決して同一の時間には存在しないからである。

21-4 若離於壞者 云何當有成 無常未曾有 不在諸法時

そもそも生成は、壊滅を離れてどうして存在するか? 全てのものは無常だとすれば、生まれたものは、全て壊滅を免れない。

 

21-5 成壞共無成 離亦無有成 是二俱不可 云何當有成

どうして生成が壊滅と共に(同じ時間に)存在するであろうか?なぜならこの二つは決して同じ時間に存在しないからである。

 

21-6 盡則無有成 不盡亦無成 盡則無有壞 不盡亦無壞

(生成と壊滅が)共にあるなら生成は成り立たなくなり、共にないならば生成はやはり成り立たない。共にあるならば、壊滅は成り立たなくなり、共にないならば壊滅はやはり成り立たない。 そのような両者の成立が、どうやって存在し得るのか?

 

生成と壊滅、生と死は、互いに依存しあう相依性である、そして互いに無自性であることを言っている。これを簡単に人間は認めることはできないのは、自我という観点からである。自我という観点では、生を追求し、死に備えて生きている。それを無いとすることは、生きる立場からはかなり辛い。

 

ただこう考えればよい。「一即多」の発想の転換すれば、 実は生と死は共に存在する。皮膚細胞は毎日死に、新しい細胞が生まれる。それは生と死が共にある状態ではないか? 自我としては、不生不滅(なにもかわらない)ということだが、細胞レベルでは生死がともにある。

 

また「多即一」の発想の転換をすれば、 生死は存在する。時間のない神の立場からすれば、人は死に、別の人の新しい生命が生まれる。それは同時に起きることもあるし、人類という生命体、地球という生命体を考えれば、やはり生死は、共に存在している。

 

常にそれを意識できれば、生死はリアリティとなり、生きる意味、死ぬ意味が見えてくる。問題は、自我という、その中間の仮想意識が、そのリアリティをどう理解するか?である。