記憶というものは現在・過去を記録して、次の判断に活かすのために使う道具として非常に重要である。

もし人間に記憶がなかったら、それでも生きていけるとは思うが、社会や科学技術は発展しようもないし、そこが人間と動物の最も大きな違いの一つである。記憶がなければ、自我も成り立たないし、人間の一生もない。自我を保つための生命線と言える。

 

しかしながら記憶は非常に曖昧である。すなわち現実をそのまま記録はできないわけで、なんらかしら近似して、情報を減らして記憶している。そして、都合の良い情報だけが残り、どんどん情報は淘汰される。「忘れる」ということが起きるわけだし、それによって新しい情報が受け入れられる。とはいえ、繰り返し思い出すことで、小さい頃の情景がデジャブのように思い起こされることもある。匂いとか、視覚的なイメージとか、そんなものが呼び起こされることもあるだろう。我々の脳はアナログの記憶装置である。非常に柔軟に視覚的イメージや匂いなどを鮮明に覚えられる一方、忘れてなくなってしまう記憶もある。コンピュータの記憶装置は、忘れないけど、脳のように効率的に視覚的イメージや嗅覚を記憶することはできない。

 

人間の脳は20Wで、こんなに消費電力が少ないのに、大量の記憶と知識の処理(推論)ができるのはデジタル情報ではなく、アナログに近い形で記憶や処理をしているからに違いない。しかしその仕組みが、自我で意識されるわけでなく、自我にはアウトプットしか伝えられない。また、そのアウトプットも当たり前のものと見なされると意識されることはない。例えば我々の視覚は、目を開けている限り常に自我に伝えられているが、それを自我が意識するものではなく、ほぼスルーしているであろう。そうやって自我は情報を取捨選択して、判断につなげている。そこには、AD変換が起きて、連続する情報を離散化して、情報をデジタライズしている。

 

しかしそのデジタライズが起きる前に、感官はアナログのまま物事を捉えているわけで、そこで取捨選択する前にそれを捉えて、判断に繋げることもできるであろう。それを習慣づければ、「自我による都合の良い情報の解釈」なしにありのままの経験に基づき、判断ができるかもしれない。「主客未分」とはそんな意味だと考える。

 

観の瞑想は、そのようなアナログをデジタル化せずにそのまま捉えることを訓練する瞑想であろう。アナログのまま捉えて、アナログのまま、自我で判断をすることを訓練していると捉えられるであろう。止の瞑想は、同じくアナログをアナログのまま捉える瞑想であるが、ひとつのことに、深く、ずっと続ける訓練だと思う。