觀三相品第七

「つくられたもの(諸現象、有為)の考察」と名付けられる第七章

 

7-9 如燈能自照 亦能照於彼 本生尚未有 何能生生生 

「あたかも灯りがそれ自身と他のものを照らすように、生はそれ自身と他の生を生ずることができる」という説がある。

 

一元論としての生を主張すれば、生の本はなにか?という問題は解決するように見える。自分で自分を照らせばよいという考えである。しかし龍樹はこの後、それを否定する説を展開する。

 

7-10 燈中自無闇 住處亦無闇 破闇乃名照 無闇則無照

灯りの中に自ら闇はなく、灯りが住する処にまた闇はない。闇を打ち破るのが照らすということだから、闇がないと照らすということはない。

 

灯りは、照らす闇がないと存在しえないが、灯りには、闇はないと言っている。ここで、新たな二元論が未だ存在することをいっている。灯りに対して、闇である。この二元論を一元論にしない限り、闇と灯りの縁起は説明できないと言っている。

 

7-11 云何燈生時 而能破於闇 此燈初生時 不能及於闇

灯りが生じつつある時に、どうしてよく闇を打ち破ることができるか? 灯りが半分うまれて半分生まれていないとしたら、闇をよく打ち破ることはできない。この初めて灯りが生じつつある時に、どうして灯りは闇へ届くことができようか?できない。

 

7-12 燈若未及闇 而能破闇者 燈在於此間 則破一切闇 

もし灯りがまだ闇に達していないのに、闇を打ち破るとしたら、今ここにとどまっている灯りで、一切全てのとどまっている闇を打ち破ることができるであろう。

 

7-13 若燈能自照 亦能照於彼 闇亦應自闇 亦能闇於彼

もし灯りがそれ自身と他のものをよく照らすならば、闇もまた疑いもなく、それ自身と他のものを覆うことになるであろう。

 

この世には、灯りだけが存在するのではなく、闇だけが存在するわけではない。両方が存在するとすると、灯りが一方的に自分や他を照らすわけではないことを言っている。闇も同じである。これを生まれることに当てはめれば、自分自身およぼ他を生まれさせることができる、それで全ての「存在」は説明できるとしたら、無尽蔵に「生まれる」ことになり、「生まれない」=無がなくなることになるが、そんなことはない。反対に全てが無で覆い尽くされるとしたら、「生まれる」はなくなってしまうが、そうでもない。「生まれる」と「生まれない」を一元論で考えないといけないということである。「住」の状態で考えれば、有と無を一元論で考えるということであろう。そうしないと世の中は説明できない、その通りだと思う。