1 觀因緣品第一

「縁の考察」と名付けられる第1章

1-8 果先於緣中 有無俱不可 先無為誰緣 先有何用緣

1-9 若果非有生 亦復非無生 亦非有無生 何得言有緣

 

1-8 事物がないときにも、有る時にも縁は妥当しない。なぜならば、事物がない時は、無である何者にとっての縁なのであろうか?また事物が既にある時は、そのあるものにおいて、新たに縁を持って何をなすのか?

1-9 ものは有としても無としても有でありかつ無としても、生ずることはない。その際、そのようである以上、生じさせる因(縁)が、いったいどうして妥当するであろうか?

 

例をあげよう。

1-8 子がいなければ、父は存在し得ないが、子がずっといたとしても、父は無限の過去に存在するものとなり、存在し得ない。

 

1-9 子は(ずっと)存在するとしても、(ずっと)存在しないとしても、あるいは、ずっと存在しかつずっと存在していないとしても、状況が変わらないから、生まれることはない(滅することもない)状況が変わらないとすれば、縁は必要ない。理由は1-8の通りである。

 

有でありかつ無であるとはどういう状態か? 集合論的に言えば、空集合になるが、有と無の両面を持っているということであれば、無自性、それは「空」に他ならない。子は、子ができないとなれない父から生まれることはできないので、未来永劫生まれることはない(無)。父に関係なく生まれたとしたら、既に生まれているから、死ぬことはない。(有)合わせて、不生不滅。子は有でかつ無である両面を持っている。

 

鈴木大拙は即非の論理というのがあって、Aは非Aである。故にAである。というのがある。

すなわちAと非Aの両面を持っている、有と無の両面を持っている。これは無の側面があるからこそ有であり、有の側面を持っているからこそ無である。有と無に分けるからこそ、無があれば有があり有があれば無がある、相依性を表現している。A且つ非Aにしても、その状態は変わらないから、縁は無用となる。