立場によって善悪が異なることは、人間の憎しみと争いに繋がっている。

イデオロギーや宗教的な紛争は今でも世界の色々なところで起きている。

イランの英雄をテロとして暗殺した米国は善だろうか悪だろうか?

宗教的な争いも、醜いとしか言いようがない。

 

パレスチナにおけるイスラム教とユダヤ教の争い、トルコとシリアの争い、イスラム教シーア派とスンニ派の争い。その点仏教は、不二法門であるから、排他的な発想にならないのがよい。

 

そもそもユダヤ教、キリスト教、イスラム教は兄弟の宗教のはずなのに、どうして排他的になってしまうのか?一神教というのは、他の神を認めないからそうなるのか? 善悪を一つの方向から見れば、悪に対して憎悪と敵意が生まてしまう。宗教が平和をもたらすのではなく、戦争を引き起こしている。

 

本来宗教は、今自分が考えているように、うまく生きるためのヒントであったはずだ。お釈迦様は2500年も前からそれを教えてくれる。

 

ユダヤ教だってキリスト教だってイスラム教だってそれを信じたい。人々を扇動する道具ではないはずだ。

 

でも、今の世界の宗教の現状、日本における仏教の位置づけさえも、魅力的には見えない。

 

神が自分の中にあるのではなく、外にあると思ってしまうと、絶対視して妄信してしまうのか?

 

あくまでも自分の内面の問題を解決する手段として、絶対的なものを自分の中にもつ考え方が宗教には不可欠だと思う。

 

キリスト教にもそのような考えはあると聞いたことがある。

 

神の名の元に戦争を始めるなど、むしろ神への冒涜だと思う。

 

悪即善、善即悪が分かって全体を客観視できれば、自分の考えを曲げてまでも、相手を許せるのではないか?

宗教だけでなく、国と国との関係をみてもよくわかる。

 

日本と韓国、日本と中国、 善即悪、悪即善とは言い難い。トランプ大統領のまき散らす自国第一主義も同じである。

外交には駆け引きが重要なのかもしれないが、一元論的に「全体を見た対応」ができる大人のリーダーが必要だ。

 

マララやグレタ、ティーンエージャーに私たちの地球環境をどうしてくれる?と嘆かれるのも情けないではないか?