フィヒテ曰く、
「自己意識は直接的であって,自己意識 においては主観的なものと客観的なものとが不可 分に合一されており,絶対的に一である」
知的直観を体系づけたのは、フィヒテというカントの後に出てきた観念論の哲学者である。
知的直観とは、活動を活動のまま捉え、主客未分の状態で直接的な意識(直接経験と置き換えてもよい)を持つときに生ずるものである。いわゆる感性や悟性から思惟をせずに直接的に客観に反映させる感性的な直観とは異なり、自己=自我に知的直観を投じて、主観・客観に左右されない未分の世界にて思惟し、行為に結び付ける直観である。哲学者が自分の直観に基づき行動することを説明するものである。
この知的直観は、西田哲学においても、純粋経験とその統一を目指しての思惟と意思の根源に存在するものあるとしている。智慧に基づく直観は純粋経験の統一レベルを格上げするのに必要という考えである。また、意思においても、根源的に知的直観が存在すると言っている。ニーチェの「力への意思」も感性だけで決まってくるものではなく、知的・哲学的な思索の上にできたメタ知識によって生み出される直観であろう。そのような知的直観を磨くことが、純粋経験の高いレベルでの統一を可能とする。
仏教においては、智慧を極めた般若を目指して修行をする。知的直観を身に着けた状態は般若といえると思う。
般若とは、禅定・三昧によって心を静めたうえで、真実の道理をありのままに見ぬくはたらきのことを言う。まさに知的直観のことを言っていると思う。
ここでいう真実の道理とは、西田哲学においては「善」である。そして神や仏の道理とも言える。それを直観として体得するのが般若を得るということであろう。
言うが安し、行うが難し。