この言葉は矛盾している。「自ずから然る」というのは、画策しなくても自然とそうなるという意味だから、「自ら計らう」ことは反対の意味である。ただこの言葉は人間の本質を表していると思う。

 

「自ら計らう」ことは動物とは違う人間の本質 である。自分の意思があり、自我があり、「幸福になりたい」という目標がある。そのために「おのずから然る」ではなく、自分の自由意志に従い、行動するのである。そして、一旦福を手に入れれば、それが持続し、あるいは更に発展する様行動する。

 

ただしそれは幸福への執着に繋がる。幸福を持続・発展しようとしても、持続しないことがある。その場合、不幸(苦)が生まれる。楽と苦は表裏一体といえる。ともすれば、苦が積み上がり、雁字搦めになってしまう。不幸な結末も予想できる。

 

だから、そのような苦から解決されたい。苦の執着から解決されたいと考える。「自ずから然る」は、苦にも楽にも執着しないということであるから、それを理想とするのである。

 

でも、現状のまま「自ずから然る」といっても、どうすればよいのだろうか?現に今私は、様々な苦に雁字搦めになっているとする。その様な執着を解くの容易ではない。全部放り出して、記憶喪失の様になればよいのかもしれないが、そうはいかないだろう。反対に、資産や名誉など楽に執着している状態でも同じである。

 

だから唯「自ずから然る」のではなく、自ら、「自ずから然る」よう計らうしかないのである。例えば、現在のみに集中し、煩悩(苦楽)にできるだけ執着しない様にする、ということはできるかもしれない。そうすれば「自ずから然る」に多少近づくことは間違えない。でも、この言葉が矛盾している様に、いくらそうやっても完全に「自ずから然る」には至らない。 

 

動物は簡単に「自ずから然る」ことができる。その時々に執着しないでありのままを生きている。動物が簡単に出来ることが、人間には不可能と言って良いくらい出来ない。

その差は自我のある無しだろう。自我の中から物事を見ている限り、そこから抜け出すことはできない。動物は自分であるが自我の外で生きている訳で、自ずから然る生き方しかできない。

 

人間は動物のような「自ずから生きる」呪縛から解き放たれ、自由に楽を追求できるが、その代わり新たに「苦の執着」の呪縛に捕まっている。動物は「苦の執着」に苦しむことはないが、自然を制圧し食物連鎖に逆らって他生物を制御するような自ら生きる種のエゴイズムは実現できない。それを可能にするのは人間だけである。

人間が自我を持つように進化したのは、他の動物より差別化しようとした戦略だと思う。そう考えると苦はその副作用にようなものであり、必要悪として受け入れなければいけないのかもしれない。この考えはニーチェに近く、神が与えた人間の目指すべき生き方と言えばそうかもしれない。

 

さて自我を持つ人間がどうやって自ずから然ることができるのか?まず自我の外に出ないといけない。自我の外であるが自分の内でなければならない。動物がそうであり、人間も動物の一種であるから、それが普通である。 よって自我と無我がひとつになった一元論的な自分を考えればよい。そのような自分のあり方であれば、煩悩や自我はあるが、苦楽に執着しない生き方を見いだせるはずだ。

 

無我の中からモノをみる見方、常にそんな見方ができるのであろうか? 三昧のような状態であれば、無我な状態は作れる。また、五蘊でいう色(受動的な感覚)に捕らわれることもなく、主観的にやるべきである、やることであると考えられるものであれば、できることが有難いと思えれば、無我でただやりそれに意味があると考えることができると思う。でも、常にそうなるのは、客観視することで成り立っている世の中で、不可能なほど困難だと思う。どうすればよいのか?