ラットに余計な糖分を与えて糖尿病にすると、その性質は子に受け継がれるそうだ。

獲得形質は遺伝する

 

学生の頃、キリンの首は、首を長くしてより高いところにある餌を採りたいと思ったから、徐々に首が長くなった・・・という考え方は間違いで、遺伝子の突然変異などで首が長くなった種が自然淘汰で生き残ったから、長くなったというダーウィンの進化論を習ったと思う。

 

またテレビで、二卵性双生児が育った環境の違いによって、スイッチのオン・オフに違いが出て、その後の遺伝に異なる影響が出る話をやっていた。これも後天的な獲得形質が遺伝するという例である。

 

なにを言いたいかというと、個々の人間の行動(自我に基づいた行動)が獲得形質として、遺伝する、すなわちDNAに組み込まれ、種我に影響を与えるということがあり得るということだ。

 

ゴマシジミの例を取ろう。

https://ameblo.jp/kekado/entry-12509811011.html?frm=theme

ゴマシジミは最初はたまたま、アリの巣に紛れ込んだのかもしれない。そこでうまく行動しうまく子孫を残したことが、獲得形質として遺伝した、、こうかもしれない。

もしそうでないとすれば、あの数奇な一生が、突然変異と自然淘汰だけで起きたと説明できるだろうか?

 

であるとすれば、人間はそんな形で進化するかもしれないのだ。いわゆるNewTypeの人間が現れてもおかしくない。

例えば、紫外線が見える人間ができても可笑しくないし、マイクロ波が聞こえてテレパシーのように会話ができる人間が出来ても可笑しくはない。まあ1代でそうなるとは思わないが。

 

そう考えれば自我と種我はお互いに影響を与えあって存在しているものといえる。

 

種我が自我に与える影響は大きく、自我が種我に与える影響は小さい。

 

でも何代も命をつなぐことで、自我が種我に与える影響も大きくなるのではないか?

 

今まで自我と種我を二元的に述べてきた。

 

でももしかしたら一元(ひとつ)なにかもしれない。

 

確実に一つといえるのは、細胞や臓器の世界を考えれば明らかである。

細胞や臓器の世界をベースに、自我が成り立っているといえるし、同じDNAを持つ種我が組み込まれているといえる。

それは、私たちの体を作る集合体から生まれている。だからひとつといえる。

 

一方で、自我と種我は同じ方向を向いたり、別の方向を向いたりする。そこに自己の葛藤が生まれ、苦しみや喜びが生まれると思う。