「iPS細胞技術の最前線で何が起こっているのか」、「将棋をはじめとするゲームの棋士たちはなぜ人工知能に負けたのか」…もはや止めることのできない科学の激動は、すでに私たちの暮らしと世界を変貌させつつある。

人間の「価値」が揺らぐこの時代の未来を見通すべく、“ノーベル賞科学者”山中伸弥と“史上最強棋士”羽生善治が語り合う『人間の未来AIの未来』(山中伸弥・羽生善治著)より抜粋してお届けする。

「こんな遺伝子を残したくない」

羽生ゲノムを解読して、この人は将来、必ず病気になるとわかったら、ゲノム編集によってあらかじめ治すことはできるんでしょうか。

山中「単一遺伝子疾患」といって、それが一個の遺伝子で起こるものだったら、治すことは可能でしょうね。ハンチントン舞踏病などがそれに当たります。複数でも2個の遺伝子ならば、まだ何とかなるかもしれません。でも3つ4つ5つ、10個と多因性疾患になってきたら、なかなか今の技術では難しいですね。

あるパーティの席で関係者の女性から「私と姉は遺伝子疾患がある家系らしいので、私も姉ももう子供はつくらないと決めているんです」と話されたことがあります。「病気の原因遺伝子は残したくないから」と言われたんです。パーティの席上だったので、じっくりと話ができませんでしたが。

そこまで深刻に考えておられる人がいるのも事実です。それが一個の遺伝子のせいならば、それを治すことで彼女たちの意識がまったく変わるわけです。

「ゲノム編集」は許されないのか

山中「病気の原因遺伝子」なんて、調べてみたら、みんなが何十個も持っているんですよ。たまたま表に発現していないだけです。だから、そうした悩みを抱えている人に接すると、「ゲノム編集は倫理的に許されない」と簡単に切って捨てることはできなくなります。

羽生そうですね。ただ、遺伝子解読は一方で、「遺伝子差別」を生む危険性がありますよね。たとえば、遺伝子検査によって特定の遺伝子を持っていることがわかった段階で、保険などに加入できなくなる問題はありえます。

山中確かにそれはあるでしょうね。アメリカなどでは、保険会社は遺伝子検査の結果を被保険者に聞くことを禁じる法律ができています。

羽生アンジェリーナ・ジョリーさんのように、遺伝子診断によって乳がんや卵巣がんになる可能性が高いことがわかって、その予防のために乳房や卵巣、卵管を切除する方もいますね。

山中彼女は母親が乳がん、母方の祖母は卵巣がんで若くして亡くなっているので、その判断はわからなくもないんです。ただ、彼女の場合、遺伝子と病気が一対一対応で、しかも乳房切除という、かなりラジカルな方法ではあるけれども、対処法が一応あるわけです。

死ぬのが怖くなる

山中深刻なのは、「あなたは病気になる可能性の高い遺伝子を持っています。でもどうすることもできません」という場合です。その場合に、その事実を本人が知ること自体が、本当にその人の人生にとってプラスなのかどうかが問われます。

たとえば、家族性アルツハイマー病の原因となる遺伝子はいくつか特定されています。でも現状では「遺伝子を検査したら、あなたはかなりの確率でアルツハイマー病になることがわかりました。ただ、現代の医療技術ではどうすることもできません」としか言えません。

ただし、この場合は、本人が事実を知ることで自分の人生を設計できるというメリットがありますね。50歳くらいで発症する確率が高いなら、それまでにやりたいことをするとか、家族のために何か残しておくとかいろいろ考えられます。そのほうが本人の人生にとってはプラスになる可能性はあります。

羽生アルツハイマー病も含めて認知症は世界で急増しています。2050年には今の3倍の1億3千万人になるという予測が発表されました。

山中誰にとっても切実な問題ですね。でも別の見方をすると、それまで抱えてきたいろいろな人生の悩みとか怒りを全部忘れて穏やかな日々を過ごしているお年寄りもいる。だから、人間にとって何がいいことかは簡単にはわかりません。

たとえば、認知症の特効薬ができて、100歳になって体が衰えてきても、頭だけははっきりしているとなると、死ぬのが怖くなって逆に大変かもしれませんよ。認知症は、死の恐怖に対する人間の一つの防衛手段という考え方もできます。