もはや正気を失っていた日本

第二次世界大戦でいくら考えても理解に苦しむのは、なぜ日本がもっと早く降伏しなかったのかということである。

そもそも日本が中国と東南アジアに侵出し、アメリカとの開戦にまで踏み切った戦略の背景には、当初は破竹の勢いでフランスまで手中に収めたドイツが、イギリスも占領し、いずれはヨーロッパ全域を制覇するに違いないという大局観があった。

軍事戦略的な基盤は、何といっても1940年に調印した「日独伊三国同盟」にあったのである。

ところが、同盟国のイタリアは1943年9月に早々と降伏し、頼みの綱だったドイツも、1944年6月の連合軍によるノルマンディ上陸以降は敗色が濃厚になっている。

1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月7日にドイツが降伏した。この時点で枢軸国の日本が勝つ可能性は完全に消滅したのだから、速やかに降伏の道を探るべきだった。

ところが、日本の大本営は、アメリカ合衆国・英国連邦(イギリス・カナダ・オーストラリアなど)・ソビエト連邦を含めて、ほぼ全世界に拡がる連合国を相手に、たった一国で「本土決戦」を決定した。背後でソ連に講和の仲介を依頼する動きがあったとはいえ、もはや正気を失っていたのである。

大本営は「国体護持」や「講和を有利にする」ための抗戦だと位置付けたが、結果的には、被害を大幅に拡大させたにすぎない。

この頃になると、当初は非常時出撃だった「特攻」が日常的な出来事になり、補給もなく前線に取り残された兵士たちは「天皇陛下万歳」と叫びながら敵陣に突っ込む「バンザイ突撃」を繰り返した。

アメリカは、これを「狂信的な兵士」による「理解不可能な自殺行為」とみなしたが、日本人兵士が降伏しなかった最大の理由は、東條英機が示達した「戦陣訓」の一節「生きて虜囚の辱を受けず」という「命令」にあったのである。

兵士に限らず、降伏すれば辱めを受けて殺されると洗脳されていた民間の日本人女子は、4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸してくると、次々と断崖絶壁から海に身を投じた。

原子爆弾「東京ジョー」

7月16日の「核実験成功」のニュースは、外国通信社が配信している。日本の大本営も情報を得ていたし、物理学者の湯川秀樹は広島が投下目標であることまで知っていて、友人に広島を離れるように伝えたという証言もある。それでも日本の指導者層は、無条件降伏を考えようとしなかった。

8月6日、広島にウラニウム型原子爆弾、9日には長崎にプルトニウム型原子爆弾が投下された。1発だけでは、それしかないと日本が判断して抗戦を続けるから、2発にしたというのが定説である。科学的見地からは、2種類の原材料による爆弾の威力を試したかったという理由もあった。

最終的に「本土決戦」に至らなかったのは、昭和天皇が日本人として最後の理性を振り絞って、あくまで「ポツダム宣言を受諾」し、「無条件降伏する」という強い意志を表明したためである。

もし「本土決戦」になっていたら、国民は、1945年4月に大本営が発行した『国民抗戦必携』に従わなければならなかった。

「敵が上陸してきたら国民はその土地を守って積極的に敵陣に挺身切込みを敢行し、敵兵と激闘し、これを殺し、また兵器弾薬に放火したり、破壊して軍の作戦に協力しなければならない」という狂気の「抗戦命令」である。

この『国民抗戦必携』には、「白兵戦の場合は竹槍で敵兵の腹部を狙って一突きに」とか、「背の高いヤンキーと戦うには、刀や槍をあちこちにふりまわしてはならない。腹をねらって、まっすぐに突き刺せ。ナタ、カマ、熊手などをつかうときは、うしろから攻撃せよ」などの殺害方法が解説されている。

実際には、もし日本が降伏しなければ、8月19日に「東京ジョー」と名付けられたプルトニウム型原子爆弾を東京に投下する予定があった。それでも日本が抗戦を続けたら、札幌から佐世保まで、全国12の都市へ順番に原爆を投下する計画もあった。

大本営の「抗戦命令」が、どれほど時代錯誤で非科学的な妄想だったか、よくわかるだろう。

兵士の多くは「餓死」で亡くなった

1977年、当時の厚生省が計算した太平洋戦争の犠牲者数は、310万人である。そのうち「軍人・軍属・准軍属」の戦没者は230万人、外地で戦没した日本人は30万人、内地での戦災犠牲者は50万人となっている。

陸軍省は「草や根を食べ、野原に寝ようとも、日本陸軍は、国体を護持する『聖戦』を戦い抜かねばならない。また、永遠の生命は死中に求めねばならない。断固とした戦いこそが、絶望的な状態から脱出する道を見いだすであろう」と兵士を洗脳した。食料や物資はすべて現地調達という作戦である。

その結果、230万人の戦没兵士のうち120万〜140万人が、栄養失調に起因するマラリアや赤痢などの病死を含めた広義の「餓死」で亡くなった。彼らは、野ネズミやヘビやコウモリまで食べるという悲惨な状況で亡くなったのである。

つまり、戦没兵士の60%以上は、補給をまったく考慮しない大本営の無謀な作戦によって殺害された。ナチス・ドイツはユダヤ人を「大量虐殺」したが、当時の日本の戦争犯罪者は、日本人を「大量虐殺」したのである。

しかも、戦没者の大多数は、戦争末期に集中している。もし日本がもっと早く降伏していれば、多くの「餓死」は防げたし、アメリカは原爆を投下できなかっただろう。

ラッセルが主張した「予防戦争」

改めて振り返ると、「マンハッタン計画」は、約3年間に総計22億ドルの経費で、ピーク時には12万人の科学者・技術者・労働者をつぎ込んで、原爆を完成させた。この計画に関わったノーベル賞受賞者だけで、21人にもなる。

責任者のレズリー・グローヴス少将は、ソ連が同じような計画で原爆を開発するには、15年から20年が必要だと考えていた。つまり彼は、1960年代までは、アメリカが優位に世界を攻略できるとみなしていたわけである。

ソ連は、第二次大戦で最も多くの犠牲者を出した。国家は疲弊し、とても新たな戦争に突入する余裕はないはずである。そこで生じたのが、アメリカだけが原爆を保有している間に、ソ連に「予防戦争」を仕掛けるべきだという強硬な意見だった。

一般に「予防戦争」とは、潜在敵国が将来、自国を侵略する機会を「予防」するために、機先を制して潜在敵国に戦争を仕掛けることを意味する。自国が戦力的・時期的に有利な間に、進んで先制攻撃すべきだという考え方である。

第二次大戦が終結したばかりの1945年10月、ソ連に対して「予防戦争」を実行すべきだと正式に表明したのは、驚くべきことに、後に「核廃絶」を主張するようになるイギリスの哲学者バートランド・ラッセルだった。

ラッセルによれば、終戦後に設立された「国際連合」のような緩い機関では、とても将来の世界平和を保障できない。彼は、連合国が民主的な「世界政府」を樹立し、そこにソ連の加盟を要求するべきだと提案した。

共産党による一党独裁政権の頂点に立ち、恐怖政治でソ連を支配するヨシフ・スターリンが、そんな要求に応じるはずがない。そこで、その拒絶を「開戦の理由」にして「正当な戦争」に踏み込めばよいというのが、ラッセルの主張だった。

ラッセルは、1948年5月には、次のように述べている。

「ヨーロッパがソ連に侵略されると、被害は甚大であり、仮にその地を取り返したとしても、決して元の状態に戻すことはできないだろう。知識人は、北東シベリアか白海沿岸の強制収容所に送られ、過酷な環境で大多数は死亡し、生き残った人間がいても、もはや人間性を失った動物にすぎなくなるだろう(ポーランドの知識人がソ連に何をされたか、思い起こしてほしい)」

明日爆撃するなら、なぜ今日ではないのか

当時のソ連は、アメリカ・イギリス・フランスの度重なる要求を無視して、ドイツ占領中のソ連軍を撤退させなかった。1949年、ドイツは東ドイツと西ドイツという2つの「分断国家」に引き裂かれ、首都ベルリンも東西に分割された。その後、西側への市民の流出を防ぐために東側が張り巡らせた「ベルリンの壁」は、「東西冷戦」の象徴となった。

1950年6月25日、ドイツと同じように分断された朝鮮半島の北朝鮮が、突然、韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。その背後に存在するのは、もちろんアメリカとソ連の二大強国である。朝鮮戦争は第三次世界大戦に繫がり、ひいては核戦争が勃発するのではないかと、世界は震撼した。

ちょうどこの時期に、ジャーナリストのクレイ・ブレアがノイマンにインタビューした貴重な記事がある。

ノイマンは、ラッセルとまったく同じ論法で「一刻も早く世界政府を樹立すべきですが、ソ連の共産主義が世界の半分を支配している限り、それは不可能です。したがって、予防戦争をすることは理にかなっているのです」と冷静に答えている。

さらにノイマンは、「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張し、「明日爆撃すると言うなら、なぜ今日ではないのかと私は言いたい! 今日の5時に攻撃すると言うなら、なぜ1時にしないのかと私は言いたい!」と述べたという。

このインタビュー記事によって、ノイマンは「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった。スタンリー・キューブリック監督の風刺映画『博士の異常な愛情』は、この発言のノイマンをモデルに「ストレンジラブ博士」を生み出したわけである。

知られざるフックス事件

1948年、ノイマンの生まれ故郷ハンガリーでは、共産党を母体とするハンガリー勤労者党が一党独裁政権を樹立した。

最高権力者になったのは、スターリンを崇拝するマーチャーシュ・ラーコシ共産党書記長である。その翌年には、ソ連が主導する「経済相互援助会議(COMECON)」に加盟し、ハンガリーは完全にソ連の「属国」になってしまった。

この状況が、ノイマンのソ連に対する「憎悪」に繫がったと書いてあるノイマンの伝記や解説書が多いのだが、実はそれよりも遥かに重大な理由があったと考えられる。

1949年8月、ソ連がセミパラチンスク核実験場で、核実験に成功したというニュースが、世界を驚愕させた。なぜアメリカの軍部の予想より10年も早く成功できたのか。

実は、ソ連は、何も「マンハッタン計画」と同じようにゼロから原爆を開発する必要はなく、その出来上がりの情報だけを入手すればよかったからである。

1950年1月27日、アメリカの原爆情報をソ連に流していた物理学者クラウス・フックスが、イギリスで逮捕された。この時点で、彼は、イギリスの原子力開発を極秘任務とするハーウェル原子力研究所所長にまで昇りつめていた。

ノイマンの隣にいたスパイ

フックスは、1911年にドイツで生まれた。父親が神学部の教授を務めるライプツィヒ大学に進学し、21歳で共産党に入党した。ところが、その翌1933年、ナチス党がドイツ国会議事堂の放火は共産党員によるものだと弾圧を始めたため、彼は、共産党員の身分を隠すようになった。

その後、イギリスに留学したフックスは、ブリストル大学大学院で物理学の博士号を取得、さらにエディンバラ大学大学院でマックス・ボルンの助手を務めながら原子核物理学の博士号も取得するという、非常な優秀さを示している。

1943年にアメリカに渡り、コロンビア大学研究員として「爆縮」を理論化し、そこで「マンハッタン計画」に関わるようになった。翌年にはロスアラモスに移住し、ハンス・ベーテの下で原爆開発の中枢に関わる任務に就いた。

彼は、無口だが陽気で、周囲からの評判はよかった。エドワード・テラーは、「フックスは好人物だった。親切で、有能で、いろいろな仕事にも気配りができたので、ロスアラモスでは人気者だった」と述べている。

原爆製造が完了した後、ロスアラモス国立研究所では、その特殊技術に関連して、将来の特許取得が見込まれるあらゆる発明について、その詳細を「発明開示書(Disclosure of Invention)」と呼ばれる機密書類にリストアップした。

この書類を作成するためには、原爆製造に関連する主要分野に精通し、発明の内容を精密に分析できる人物が必要である。そして、その執筆者として選ばれたのが、ノイマンとフックスの二人だった!

つまり、フックスは、多くの研究者と共に原爆を製造し、その過程で生じた数えきれないほどの発明の詳細をノイマンと一緒に話し合って、共著で機密書類をまとめた人物である。そのフックスが、実はソ連のスパイだったわけである。

クラウス・フックス(photo by gettyimages)

フックスが世界に与えた影響

この事件が、どれほど大きなショックをノイマンに与えたのか、触れた文献は見当たらない。

しかし、それまでの順風満帆な人生で、その種の「信じ難い裏切り」を経験したことのないノイマンは、底知れぬ「恐怖」を感じたのではないだろうか。そして、彼の「憎悪」が、フックスの背後に存在する「ソ連」に向けられたのではないだろうか。

1950年3月1日、フックスの裁判が、ロンドン中央刑事裁判所で開始された。フックスは、自分の罪状を全面的に認め、1943年から47年にかけて、4回にわたり、ソ連に機密情報を漏洩したことを自白した。その中で最も重要な機密情報が、ノイマンと共著の「発明開示書」だった。

このスパイ活動によってフックスがソ連から得た報酬は、400ドル余りの経費にすぎない。彼は「筋金入りの共産主義者」であり、そうすることが人類のために「正しい」という信念に基づいて、ソ連に情報を流したのである。

もしフックスの裁判がアメリカで行われていたら、国家反逆罪で死刑になったかもしれない。しかし、イギリスの裁判では、禁錮14年が最高刑だった。その裏には、司法取引や国家間取引があったのではないかともいわれている。

フックスは、最高刑の判決を受けたにもかかわらず、9年間の刑に服した後、1959年に東ドイツに引き渡された。東側では、彼は英雄として迎えられ、「カール・マルクス勲章」を授与された。その後、ドレスデン工科大学教授に就任し、中華人民共和国の留学生たちに原爆製造方法を教えた。そのおかげで、中国も早期に核兵器を開発できたという。

彼は、1988年に亡くなった。